プチ小説「登山者6」

いつもの年は5月に入って登山を始める山川であったが、今年は3月に暖かい日が続いていたので
4月の半ばに比良山に登ることにした。山川は、この頃は花粉が多く漂っているので大丈夫かなとも
考えていたが、登り始めると案の定花粉が漂っていて、鼻炎の気のある山川は絶えずハンカチを片手に
持ち、しばしば鼻にそれを当てていた。それでも、青ガレを過ぎたあたりでうぐいすの鳴き声を聞いた
時にはそんなことは忘れてじっと耳を傾けた。「けきょ、けきょ、けきょ」しばらく行くと別の
うぐいすが谷渡りをしていた。さらに先に進むと「ちゅっぴー、ちゅっぴー、ちゅっぴー」今度は、
シジュウカラが鳴いていた。
「さっきは、小さな鳥がかわいらしい声で精一杯鳴いていた。あれは、もしかしてセンダイムシクイ
 という小鳥だろうか。野鳥のことがもう少しわかれば登山ももっと楽しくなるだろうな...。それに
 してもさっき快晴だった空が真っ黒になって小粒の雨が降って来た。雨の心配はないと天気予報では
 言っていたんだが。今日は、武奈ガ岳山頂に登ったら、坊村に下りることにしよう。JR比良駅に行く
 より早くどこかの駅に辿り着けるかもしれない。確か坊村から午後2時か3時にバスが出ていたはずだし」

山川は武奈ガ岳山頂に来たが、うっすら雪が積もりしかも冷たい風が顔に吹き付けるので、山頂での
昼食も途中でやめて坊村へと下山することにした。山川には初めての道だったが、ただ人工的に作られた
ジグザグの道を下るところが多く、しかもぬかるんでいて何度もすべりそうになったのでよい印象を
残さなかった。それでも眼下に坊村の家並が見えて来た時には安堵の息をついた。山川は坊村に着くと
バス停を探した。
「これで何と帰られるぞ。ああ、バス停があった。でも時刻表を見ると午後3時45分に堅田行きの
 バスがあるのと、夕方に京都市内行きのバスがあるだけだな。あと2時間もある。どうしようか」
道路の向こうを見ると葛川が流れていて、夏場は釣りもできるようだったがまだ時期的には早かった。
しばらく国道沿いを歩いてみたが特に時間がつぶせそうなものは見つからなかった。
バス停に戻り腰掛けてバスが来るのを待っていると、3人の年配の男性が声を掛けて来た。
「今年で75才になるのですが、登山のシーズンが始まるのが毎年待ち遠しくて...。比良山はあらゆる
 ルートに登っています。それでもいつでも新しい発見があるんですよ。50代、60代には日本アルプスの
 ほとんどの山に登りました。体力的には難しいのですが、できれは槍ヶ岳にはもう一度登ってみたいと
 思っています」
その男性の話を聞いて、山川はしばらくにこにこしていたが、
「そうですか。自分はまだまだ若輩ものですが、あなたのように長く登山が続けられたら、幸せだろうなと
 思います。登山は60代半ばくらいまでかなと考えていた私はあなたのお話を聞いて少し驚いています」
と言って、自分も楽しく登山ができていることに感謝した。