プチ小説「春の想い」

「やあ、待たせたかな」
「いいや、さっき来たところだよ。久しぶりだね」
「ああ、5年ぶりだよ。でも前よりずっと貫禄が出てきたね。やっぱり課長になると違うね」
「まあいろいろ上司から任せられるからやりがいもあるし、やはり部下を持つと仕事が変わってくるからね」
「数年したら、部長になるんだろうね」
「まあ、そうなれるように頑張るよ。ところできみはどうなんだい。本は売れているの」
「まあぼちぼちというところかな。でも今度の改訂版は大きな出版社だから、期待しているんだ」
「でも今から8年前に本を出すと君が言った時には驚いたよ。自己啓発やハウツーものかなと思っていたら、小説なんだから」
「ぼくはきみのように結婚して3人の子持ちというわけでもないし、後世に残せるものが何もない。きみは会社で実績を残しているし、きみの子供たちも社会に貢献をするかもしれない。それでぼくも何かを残せないかと考えて、小説を出版することに決めたんだ。恋愛小説はとても書けないし、推理小説はほとんど読んだことがないし、歴史小説を書くほど知識がない。でもイギリス文学は浪人生の頃からよく読んでいたから、かなり知識はある。それで文豪が主人公の夢の中に出てくる小説を書けば、小説に付加価値がつくし、内容が充実していれば、イギリス文学の先生方からも興味を持っていただけるんじゃないかと考えたんだ。出版してすぐに出版社からフェロウシップの事務局に自著を代行発送してもらったら、秋季総会に出席しませんかとメールが来たんだ」
「それから多くの先生方に親しくしてもらったり、秋季総会でミニ講演をさせてもらったりするようになったんだね」
「本当に大学の先生方にはよくしてもらっている。年2回先生方とお会いするのが楽しみなんだ」
「大学図書館に君の本がたくさん受け入れられているそうだけど」
「そうさ、それから全国の公立図書館にも」
「それだけしたら、もう十分満足しているんじゃないのか」
「まさか、大学図書館や公立図書館の受け入れはあるが、本の売り上げには繋がっていない。自費出版は自分で宣伝活動をしないといけないから、多くの時間を費やしたが、売り上げに反映されなかった」
「それでも今度は大きな出版社だから、期待できるんだろ」
「もちろん期待はしているさ。改訂版を出すにあたり、しっかり内容を吟味して意見をもらったし、表紙の装丁が花のある、素晴らしいものになっている」
「それだけしてもらったんなら、近いうちにいいことがあるかもしれないねぇ」
「最近はそれだけを楽しみに生きているという感じさ。私の春がやって来たら、次のことも考えている」
「気が早いな」
「次の出版の話がなければ進まないけれど、先日、出版された本が売れたら、そういう話が出てくるかもしれない。50才を過ぎて突然小説を書き始めたので、そんなにたくさんの小説は書けないだろう。チャンスをいただければ、いくらでも小説を書かしてもらうと言いたいところだけれど...。冷静に自分を見てみると勤勉さはあるけれど、文才がある方ではない。また苦手な分野の小説を書いてくれと言われても書けないだろう」
「じゃあ、先日出版された小説がベストセラーになったとしても今とあまり変わらないっていうことかい」
「サマセット・モームの『人間の絆』という小説をきみは知っているかい。その小説の中でモームは、人それぞれが絨毯の職人のように自分の意に叶ったきれいな人生の模様を編み上げて行くと書いている。これから先もぼくは小説を書くという作業をして人生模様を編み上げて行くつもりだが、その本を多くの人が読んでくれて高い評価をしてもらえたら、20年くらい先に振り返って見たら、いい人生だったなと言えるんじゃないかと思うんだ」
「そうだな、そうなるといいね。ぼくも応援させてもらうよ」