プチ小説「耳に馴染んだ懐かしい音13」

二郎が四条通のジュンク堂書店の前を歩いていると、森下さんのおばちゃんが声を掛けた。
「二郎君お久しぶりね。どう、この近くの喫茶店でお話しない。もちろんコーヒーを奢らせてもらうわよ」
「いいですよ」
近くに喫茶店の看板が出ていたので、ふたりはその店に入った。一番奥の席にふたりが腰掛け、ホットコーヒーをそれぞれが注文すると、二郎がおばちゃんに話し掛けた。
「おばちゃんが明るくしているのを見て、ぼく、安心しました」
「それどういうこと」
「だって、この前、レッスンが個人レッスンになって、昔のフォークソングをピアノ伴奏で吹いている。楽しいけど、先生からはこんな簡単な曲ばかり、吹いていては駄目と言われたと言って、意気消沈しておられた」
「ええ、でも私、前からナターシャセブン、風、かぐや姫の大ファンだから、ナターシャセブンの「街」「春を待つ少女」「想い出の赤いヤッケ」を先生の伴奏で吹けたのは幸せだったのよ。風の「海岸通り」やかぐや姫の「神田川」も吹きたかったんだけど、グループレッスンになったので、好きな曲を吹くわけには行かなくなった」
「じゃあ、レッスンが楽しくなくなったんですか」
「いいえ、普通のレッスンに戻ったんだから、先生からいろいろご指導いただいて楽しかったわよ。ただ...」
「ただ...何ですか」
「一緒にレッスンを受けておられる方が週末がお仕事で忙しいから、発表会に出られるか微妙だったの」
「そう言えば、おばさん、発表会で演奏するのを楽しみにしておられましたね」
「別に楽しみってわけじゃあないわよ。ステージでは緊張するしね。でもひとつの課題に取り組んで、その成果をみんなに見てもらうというのは仕事だけでなく、趣味でも必要なことだと思うわ。それができないとなると習っている意味がなくなる。ひとりでステージに立とうかと考えていたところ、今年の発表会は金曜日と土曜日の2日間ということで、金曜日ならその方も参加できるということになったの」
「でも、平日だったら、おばちゃんは仕事があるんじゃないですか」
「有休の一日くらい何とかなるわよ。それで2人でやりましょうということになったの」
「どんな曲をしたんですか」
「それぞれ発表会で演奏したい曲を出したんだけど、その人は「あぐり」のテーマ曲を吹きたいと言われたの」
「ああその曲なら、ヴァイオリンの演奏で聞いたことがあります。で、おばさんは何を出したのですか」
「1979年頃にNHKみんなのうたでかかっていた曲なんだけど...わかる?」
「みんなのうたかぁ、ぼくは、北風小僧の寒太郎くらいしか知らないなあ」
「和田アキ子さんが「風の歌」って曲を歌っていたの知らない。タタンタタータって」
「ああそれなら聞いたことがありますよ。ブラームス交響曲第1番の終楽章のテーマを編曲したものでしょう」
「おばさんは歌詞も好きで、よく口ずさんでいたわ」
「それでその2曲を発表会で演奏されたのですね。出来はどうでした」
「どちらも愛着を持って、練習を重ねたけど、あまりよい出来ではなかったわ。でも一緒に演奏された方が頑張ってくれて、ピアノの先生の伴奏もよかった。練習も楽しかったし」
「じゃあ、言うことなしだったんですね」
「まあね。でも最後は息も絶え絶えだった。もっと体力をつけないと」
「ええっ、今から身体を鍛えるんですか」
「そうよ、だって、クラリネットが上手く吹けるようになりたいんだもん」
「そうですか。ご健闘をお祈りしています」