プチ小説「名曲喫茶ムジークヒュッテ4」
夏山は、4月からK市の市役所で働き始めた。4月初旬は新人研修で忙しく、友人と一緒に訪れた名曲喫茶を訪問することはなかったが、大型連休前になると配属される課も決まり落ち着いてきたので、久しぶりに訪ねてみることにした。扉を開けると髭の主と顔がよく似た70才位の男性がいた。
「やあ、いらっしゃい。仕事帰りですか」
「ええ、そうです。連休の前に一度来たいと思っていたんです」
「何になさいます」
「ホットをもらおうかな。リクエストを頼んでいいですか」
「もちろん、いいですよ。その前に私の父を紹介してもいいですか」
「そうだと思いました。ほんとにそっくりですね。病気はもう治ったのですか」
「なぜそのことをご存知なんですか。一郎、お前、そんなことを話したのか」
「だって、店主はいないのかと尋ねられたので、入院していると言っただけだよ」
「そうか、わかった。ところでこの方は夏山さんなのかな」
「そうだよ、ペーター・マークの「スコットランド」が大好きな夏山さんだよ」
「そうか、そうか。もしかして夏山さん、あなたはかなりクラシック音楽に精通されておられるのでは」
「好きは好きですが、まだ5年くらいかなあ。それよりこれだけのレコードをお持ちなんですから、お父さんの方がずっと精通されておられるのでは」
「そうですね。このレコードは50年程掛けて収集したものですから、50年間は私はクラシック音楽ファンだったわけです」
「レコード収集もそうですが、オーディオ装置も購入して、こうして名曲喫茶も営業されている。クラシック音楽への情熱がすごいですね」
「確かに5年前まではすごかったなあ、おやじ」
「5年前までは...ですか」
「少し長くなりますが、最初から話していきましょう。実はこの店ができたのは今から15年前なんですが、最初の10年は妻と一緒だったので...」
「奥さんは今、どうされているのですか」
「事故で亡くなりました。詳しいことは今は話したくない」
「夏山さん、少しわかっていただけたと思いますが、ほんとに5年前まではおやじもおふくろもニコニコ笑顔で毎日を過ごしていたんです。ところがある日おやじは連れ合いをなくし、途方にくれてしまった。一人息子のぼくは東京で営業の仕事をしていたけれど、1年前に帰って来たら、ひどい状況だった」
「どんな状況だったんですか」
「それまで家事は母親任せでした。なので名曲喫茶の営業ができなくなっただけでなく、家事もできない。几帳面な性格だったら、少しは救われたかもしれないけど...まあ、ひどいものでした」
「それで息子さんはどうされたのですか」
「息子は管理職だったので、すぐに会社をやめるわけに行かず、3ヶ月前までは東京で働いていました。休日には家に来て片づけをしてくれました」
「3ヶ月前に父からまた名曲喫茶をしたいと言われた時、何とかしてやりたいと思ったのですが、2つの問題がありました」
「それは何ですか」
「男2人生活していくお金をどうするかと店の営業をどうやってするかでした」
「お父さんひとりでは駄目なんですか」
「ふたりいないと駄目ですね。父は心臓が悪いし。それに父の年金だけではやっていけない。でももう一度楽しい日々を過ごさせてやりたい」
「それでここに帰って来られたのですね」
「そうです」