プチ小説「東京名曲喫茶めぐり ヴィオロン編」

「それにしても大学に入学できたので東京を案内してほしいと言うから、東京タワーや浅草を
 案内するつもりだったのに、名曲喫茶に連れてってほしいって言うんだから」
「でも、ずっと前から行きたいと思っていたけど行けなかったんだもの。毛利さんは印刷業の
 勉強のために5年間東京に行くって3年前に手紙をもらった時から、東京の名曲喫茶で一日を
 過ごしたと手紙で何回も書いていたから」
「そりゃぁ、一杯のコーヒーで閉店まで本を読んでいても何も言われないし、しかも名盤がすばらしい
 オーディオ装置で鑑賞できるのだから。休日に来るとしたらここになるんだ。これほど...」
「ここが、ヴィオロンかぁ。何度も毛利さんが書いてたね。自作のスピーカー、柔らかな楽器の音が
 やさしく包んでくれる感じだとか。わぁ、すごい、1960年代にタイムスリップしたみたいですね」
「お客さんもいるのだから、もう少し静かにして。すぐにマスターが注文を取りに来るから、リクエスト
 するといいよ。コーヒーでいいね。リクエストを決めていないんだったら、あとでいいよ」
「いろいろあって悩んでしまう。長い曲でもいいですか」
「マーラーやオペラ全曲は無理かもしれないけど、30分から50分くらいの曲は大丈夫だよ。
 ひとり一曲は受け付けてもらえるから。でも次もあるのだから、早く決めた方がいいよ」
たろうは忙しくコーヒーを撹拌していたが、
「それじゃあ、バックハウスでブラームスのピアノ協奏曲が聞きたいなあ」
と思い切って言ってみた。
「1番、2番どちらがいい。美の極致のような2番もいいけど、若々しく力強い1番もいいね」
「毛利さんが決めてよ」
「そりゃ、困ったな」
毛利もたろうを真似て、コーヒーを忙しく撹拌し笑った。
「2番はここで聞いたことがあるし、どこの名曲喫茶でもバックハウスは定番だから安心してリクエスト
 できると思う。1番は好みが分かれるところで、ぼくは最近になってその良さに気が付いた。2番が
 いいんじゃないかな」

「どうだった。やはり最初は落ち着いた曲で良かったんじゃないかな。あと2軒はしごをするんだから、
 エネルギーを溜めとかないと」
「そうですね」
そう言って、たろうは笑った。