プチ小説「こんにちは、N先生14」

私は年4回、3月と6月と9月と12月に東京杉並区阿佐ヶ谷の名曲喫茶ヴィオロンでLPレコードコンサートを開催しているのですが、今年も3月24日にユージン・オーマンディの特集をするということで、開始時刻の10分前にヴィオロンに到着したのでした。私のコンサートは直前に数名の方が来られてそのあとすぐに帰られる方や最後まで鑑賞いただく方と様々ですが、この日も数名の方が私が到着した時に来られていました。私はいつも入って左手のトイレの横のテーブルに陣取るのですが、そこに腰かけて、何気なくその奥の席を見るとN先生がおられました。私は腰を抜かしてしばらく立てませんでしたが、もうすぐLPレコードコンサートが始まるので、声をお掛けしました。「N先生、こんな暗いところで何をしているんですか」「きみー、前にも言ったじゃないか。私は君のホームページをよく見ていて、君と会えそうな気がしたら、行動するって」「そうでしたね。でも、LPレコードコンサートは2002年から定期的開催していますし、もう少し早く来ていただけたんじゃないかと思うんですが」「そりゃー、私もそうしたかったさ、でもなかなかお気に入りのアーティストの特集がなかったのさ」「というと先生はオーマンディのファンなんですか」「昔からそうさ、オーマンディがアメリカのオーケストラで仕事をするようになった切っ掛けなんか面白いじゃないか。そうして何気に入ったオーケストラでヴァイオリン奏者から指揮者に転向し、やがてフィラデルフィア管弦楽団を指揮するようになり、音楽監督となってアメリカでトップクラスのオーケストラに育て上げる」「でも、ウィーン・フィルやベルリン・フィルと比べると...」「まあ、そうかもしれない。でもね、指揮者とオーケストラが一体となって響かせるサウンドは一聴の価値が十分にあると思うんだ。ミュンシュ指揮ボストン交響楽団、メータ指揮ロサンゼルス・フィルそしてオーマンディ指揮フィラデルフィア管弦楽団は地元のファンを巻き込んで一時代を作り上げたと思うんだ。それで今日は関西からわざわざ駆けつけたんだ。ところで君は「失われた時を求めて」を読んでいるのかい」「ええ、『囚われの女』を読み終えました」「で、どうだった」「いきなりアルベルチーヌとの同棲生活で始まっているというのには驚きました。でもこの物語の主人公である話者の行動が普通でないので、最後はアルベルチーヌに嫌われてしまうという感じですね。アルベルチーヌはかなり美しい女性のようですが、主人公が思い通りにできる(プルースト全集8『囚われの女』(井上究一郎訳)90ページ、102ページ参照)のだから、あとはふたりで食事に行ったり、遠出をすればよいと思うのに部屋に籠って墓穴を掘っている感じですね」「でもそれは、主人公が病弱だったからかもしれないよ」「それでも作家は読者が求めているものを提供しないといけないように思うんですが、少なくとも『囚われの女』を読んで、明日への活力が湧いたり、感動で咽び泣いたり、怒り狂ったり、腹を抱えて笑うことはないでしょう。あまりに主人公の行動が曲がりくねっていじけているので、こちらもどうしたらいいのかおどおどしてしまうのです。もしかすると、プルーストは戸惑っている読者を天国で笑って眺めてのかもしれませんね」「そういうことを言う君だって、少しいじけているんじゃないか」「まあ、そうかもしれません。でも人間と言うのはおかしなもので、決められた道を堅実に行けばいい結果が出るのに、時には羽目を外したくなるのです。病院の事務員を堅実にやっていればいいのに、本を出版したりする私のように」「いやいや、『こんにちは、ディケンズ先生 改訂版』は君のディケンズという作家についての研究の成果だよ。続編の『逃げ去る女』と『見出された時」を読み終えたら、じっくりディケンズの小説を読んでもらいたい」「ええ、もちろん、そうするつもりです」「じゃあ、今日は、オーマンディ指揮フィラデルフィア管弦楽団の演奏をじっくり聴かせてもらうよ」「ええ、ごゆっくりどうぞ」