プチ小説「名曲喫茶ムジークヒュッテ7」

一郎の父親が何かを思いついたようだったので、夏山は、お父さんも何か秘策をお持ちですかと尋ねた。
「秘策というものではないんだが、ここに来られる方に昔、京都市内の大学で先生をされていた方がいて、その方は若い頃はよく朗読会を開催したと言われていた」
「おいくつくらいの方ですか」
「わしより10才は上だが、矍鑠としておられて、声もわしよりずっと大きいよ」
「まあ、それよりその方がどう思われているかでしょう。お若い頃のようにまたやってみたいとか言われたんですか」
「それは聞いていないが、前向きに検討してくれるんじゃないかな」
「どんな台本を読まれるんでしょうか。その人の朗読はお客さんを呼べるんでしょうか」
「ちょうど今の時間にその方はここに来られる。ここで美味しいコーヒーを飲むのが、週に一回の楽しみだと言われていた。おお、来られたから、訊いてみてはどうかな。先生、こんにちは」
「やあ、新見さん、こんにちは。息子さんも一緒だね。こちらの方はどなたかな」
「今年の春に大学を卒業されて、市役所に入られた夏山さんです。うちを贔屓にしていただいているんです」
「今日もリクエストしていいかな」
「ええ、どうぞ」
「クレンペラーの「夏の夜の夢」がいいな。わしは結婚行進曲より序曲が大好きなんじゃ」
「わたしも聴きたいから、LPレコード両面お掛けしましょう。その前にちょっと先生にお尋ねしたいことがあるんですが」
「何かな。私で答えられることかな」
「じゃあ、夏山さんから直接お話いただこうかな。荒木先生、こちら夏山さんは名曲喫茶としてうちが末永くやっていけるようにいろいろ考えてくださっているのです」
「ほう、それは私も同じだよ。何か役に立てるのかな」
「荒木先生、はじめまして、夏山と言います。新見さんから先程聞いたのですが、先生は以前朗読会をされていらしたんですか」
「ずいぶん前のことだが...。新見さんから聞いたのかな」
「そうです。どんな台本を使われたんですか」
「なかなか朗読用台本というものは手に入らない。だもんで、文庫本を読んでいた。感情移入しやすい本がやりやすかったな」
「例えば、どんな本を読まれたのでしょう」
「私の専門が英米文学なので、シェイクスピア、ディケンズ、O・ヘンリーなんかをよく読んだかな」
「いつ頃までされていたんですか」
「70の頃まではいろいろ伝手があって朗読会に呼ばれたりしたが...そうだなもう5年くらい朗読会には行っていないなぁ」
「どうですか、それをもう一度ここでしていただくというのは」
「そうか、そういう話なのか。でもお客さんは来るのかな。いつも3人しかいないというのは寂しい気がする。私は週に一回ここに来るが、他のお客さんを見たことがない。隠れ家としては最高だが、朗読会の会場としては物足りないな。話の続きがあるのなら聴こうか」
「ここで朗読会をしていただくとして、先生はどんな原稿を読まれますか」
「それはあなたがたにお任せする。希望の台本があればそれを読むし、私が好きなのを呼んでいいというのなら、シェイクスピアでも読むさ」
「ぼくは、シェイクスピアは視覚的な効果を重視するので、朗読には向かないと思います。また原文の韻の響きを楽しんだり、名場面の抜粋を読むというのがありますが、その方法で30分から1時間の間ずっと朗読会を楽しんでいただくというのは難しいと思います」
「それでは、何がいいのかな」
「ぼくは、ディケンズがいいと思います」
「なるほどなぁ、私も同意見だよ」