プチ小説「こんにちは、ディケンズ先生25」

ゴールデンウィークの最後の日に最終の新幹線で京都に帰ると秋子が連絡して来たので、小川は 午後8時過ぎに
東京駅にやって来た。
「確か、改札口を入ったところの弁当売り場の辺りに来てと言っていたが...。いたいた。どう、楽しかった東京は」
「ええ、充実していたわ。実は、小川さんには言わなかったけど、東京の友人と今度のライブの練習をしていたの。
 最初は、それこそ、テープに吹き込んだ伴奏を流しながら、おなじみのメロディーを吹こうと考えていたんだけれど、
 ライブのチラシを見ると、みんな趣向を凝らして難しいことに挑戦しているし、だから自分も頑張ってみようかなと」
「それで曲目はどうするの」
「私、名曲喫茶ヴィオロンに行って、最初に目についたのがピアノなの。東京にピアノが上手な友人がいて、クラリネット
 の伴奏を頼んだら、引き受けてくれたの。それで、ブラームスのクラリネット・ソナタの第2番とシューベルトの
 アルペジョーネ・ソナタを前半でやって、後半は、おなじみのメロディー、そうそう小川さんがリクエストした、
 春の日の花と輝く、ロンドンデリー・エア、グリーンスリーブスなんかをお客さんに聞いていただこうと思うの」
「楽しみにしているよ。チラシを頑張って作るから、曲目を教えてね。じゃあ、そろそろホームに上がろうか」
「そうね、でも、今日はここで握手してお別れにしましょ。ライブがうまくいったら、祝杯を上げることにしましょう」
「なんだか、お預けをくったみたいだな。でも、明るい未来がやって来ることは、たまにあるみたいだから、少しだけ
 期待しているよ」
「わかってもらえてうれしいわ。それじゃあ、さよなら」
小川は秋子がホームへの階段を登りきり、手を振るのを見て、ふと呟いた。
「彼女にして上げられることを、一所懸命するしかないな。今は」

その日も小川は、夢の中に出て来たディケンズ先生に自分から話し掛けた。
「悩みの相談に乗っていただくのは恐縮なんですが、このままいつまでも同じところをぐるぐる回っていていいんでしょうか。
 ぼくは毎日の暮らしにあくせくしていて、秋子さんを幸せにできる自信はない。それでも彼女がぼくのことを思ってくれる。
 でもそれがいつまでも続くとは考えられないんです」
「若い時に恋の悩みはつきものさ。楽しい一時が過ごせるだけでも有難いと思わないと。君たちに足りないのは経済力だが、
 それがかえって相手を思いやる気持ちを強くしている。すべてお膳立てができた恋愛なんて、つまらないものさ」
「先生、そうは言っても...」
「そんなにくよくよするな。君は、私の小説を通して多くの人の人生の断片をかいま見たことだろう。人生の頂点が長続きすることは
 余りない。性急にそれを追い求めることが果たしていいものかどうかは、ちょっと考えてみればわかるだろう」
「でも、「デエィヴィツド・カツパフィルド」の主人公は成長してからは苦労知らずです」
「......」