プチ小説「こんにちは、N先生15」
私は、毎月3回京都にあるJEUGIAのミュージックサロン四条に行きクラリネットを習うのですが、本日も仕事を終えてから、阪急電車で烏丸へと向かいました。駅前のビルの9階に上がり、トイレで用を済ませてから待合に行くと、N先生がおられました。私が、「先生、なぜこんなところにおられるのですか」と尋ねると先生は、「君のホームページにある『クラリネット日誌』を読んでいたら、クラリネットを吹いてみたくなったんだ。それで体験レッスンを申し込んだんだ」「じゃあ、このあと私と一緒にレッスン室に入られるんですか」「そうだよ、君がどれくらい吹けるのかも楽しみなんだ」「そうですか」「ところで、最近、君は、『たこちゃんのグルメ・リポート』というのをホームページに掲載していて、私は楽しんでいるんだが...」「何か問題があるんでしょうか」「そろそろ『こんにちは、ディケンズ先生』の続編を書いたらと思うんだ。君ももうすぐ定年だし...」「ご心配していただいてありがとうございます。でも有難いことに仕事は続けられますから、同じペースでやって行こうと思うんです。今までと同じように少ないお金でささやかに趣味を、やりたいことをやって行こうと思っています」「でも時は待ってくれないよ。60才を越えたら、10年、15年はあっと言う間だよ。私もいつの間にか70才を越えていた」「そうだと思います。だからここ1、2年ですることは既に考えています。『こんにちは、ディケンズ先生2』の改訂版を出版すること。可能であれば、3、4巻を出版すること。さっき先生は続編を早く書いたらどうかと言われましたが、3、4巻については大きな手直しをしようと考えています」「ほう、どんなところなのかな」「余りにディケンズ先生の出番が少なくなり、ディケンズの作品へのコメントが少なくなっているのです。『失われた時を求めて』も第6篇『逃げ去る女』を読み終えて最終巻だけとなったので、そろそろ手直し作業に役立たせるためにディケンズの長編小説の再読を始めようと思っています」「そうか、そしたら、301話以降の「こんにちは、ディケンズ先生」の内容が変わる可能性もあるわけだ」「そのとおりです。7、8月に3、4巻の手直し作業をしようと思っています」「『逃げ去る女』はどうだった」「『囚われの女』『逃げ去る女』『見出された時』は作者の死後の出版ということで、モーツァルトのレクイエムのような感じです。天国でプルーストは渋面を作っているんではないかと思います。確かに『花咲く乙女たちのかげに』は隠喩(メタファー)が有効で文章が輝いている気がしますが、『囚われの女』や『逃げ去る女』の隠喩は輝きがありません。場面設定(導入する箇所)が上手く行っていませんし、選択して組み合わせる言葉も物足りなく感じます。私が一番気になるのは話者の性格がだんだん悪くなっていくということです。最初はスワンという男性に憧れを感じていろいろなことを学んだ話者でしたが、『ソドムとゴモラ』のあたりから、スワンを誹謗するようになります。恩人を非難するその心理というのを私は理解できません。作家のベルゴット、画家のエルスチール、作曲家のヴァントゥイユに対する憧れも批判的な評価に変わって来ます。そしてオデット、ジルベルト、アルベルチーヌ、アンドレへの愛情も劣化していきます。『逃げ去る女』では、アルベルチーヌが話者から離れていき、落馬事故で亡くなり、最初はアルベルチーヌに対する哀惜の念が話者により語られますが、アルベルチーヌが同性のアンドレに愛情を持っていたのは許せないとか、そんな些事を持ち出しては自己嫌悪を増幅させていくというふうに変わって行きます。友人のロベール・ド・サン=ルーとの友情が復活したかに見えましたが、サン=ルーの関心がジルベルトに行くようになるとまた自己嫌悪となり、親友なのに悪い感情を抱くという感じです。サン=ルーは戦地で亡くなってしまいますが」「そういうことがあり、話者が昔の恋人であるジルベルトと接近する場面から、『見出された時』が始まるわけだが、どうなると思う」「まあジルベルトと結ばれてハッピーエンドになったら、『大いなる遺産』みたいな感じだなと言って私は喝采するのですが、話者の予測のつかない行動に翻弄されて、終わりという感じになるのだと思います。それよりも先生、もうすぐ7時になります。そろそろレッスン室に行きませんか」「そうだな、じゃあ、君のクラリネットの音色をじっくり聴かせてもらうよ」