プチ小説「こんにちは、N先生17」
私は通勤やSTUDIO YOU(クラリネットを練習するためのスタジオ)に行く時によく阪急電車を利用するのですが、その日(日曜日)もSTUDIO YOUでクラリネットの練習を終え、相川駅から自宅の最寄りの駅まで阪急電車で帰るところでした。ホームへの階段をあがり、そこから二つ目のベンチを見るとN先生がおられ、赤い表紙の本を読んでおられました。私が、「先生もモリエールを読まれるのですか」と尋ねると先生は、「ああ、たまにね」と言われました。先生は続けて、「それよりきみはこの前、O・ヘンリーを読んだら、モリエールを読むって言ってたけどどうなんだい」と言われました。私は、「O・ヘンリーは、どちらかというとユーモアや風刺を重視したもので、私が好きな心が温まるような小説はほとんどないように思いました。『賢者の贈り物』『最後の一葉』は心が温まる小説で、O・ヘンリーの代表作だと思いますが、『水車のある教会』という短編小説も、大久保康雄訳、大津栄一郎訳、芹澤恵訳のいずれにも収録されている、心底温まる小説でした」「それでこれからも君は、O・ヘンリーを読むのかな」「多分、ディケンズやその他の小説家の長編小説を読むと思います。愛着を持った人物と長くおつき合いしたいなぁと思うようになったんだと思います」「ディケンズの長編小説の登場人物では、誰が好きなのかな」「そうですねぇ。『ピクウィック・クラブ』のピクウィック氏、『荒涼館』のエスタ、『リトル・ドリット』のアーサー・クレナム、『大いなる遺産』のピップなんかが好きですね」「他の小説家ではどうかな」「実は私はフランス文学も好きなんですが、その理由は主人公が物事に一心に打ち込むからなんです」「ほう、それは誰かな」「『レ・ミゼラブル』のジャン・ヴァルジャン、『モンテ・クリスト伯』のエドモン・ダンテス、『三銃士』のダルタニャンですね。彼らが怒る時や悲しむ時に私は心を動かされます」「じゃあ、モリエールを読み終えたら、それらをもう一度読み直すんだね」「いつか読みたいですね。でも『ダルタニャン物語』を全部読むには半年以上かかりますから、いつになりますか」「ところでモリエールの笑劇はどうかな」「私は、モリエールの笑劇はシェークスピアの劇とは全く違うものと解釈しています。こんな読みやすい台本は他にありません。だから私が西洋文学の知識が全くなくてもすっと頭に入って来たんです」「今から39年前、『守銭奴』の最初のページを読んだ時のことを今でも覚えています。外国文学はこなれていない訳文で読みにくいという先入観を持っていた私が百八十度考え方を変えたのが、モリエールの笑劇なんです。「なんて平易なんだろう。なんて面白いんだろう」と心を入れ替えた私はそれからしばらくは、モリエールの文庫本ばかりを読んでいました。当時、岩波文庫や新潮文庫から合わせて十冊ほど文庫本が出ていて、それを全部読みました。表現に問題があるところがしばしばあるので、気軽に勧められませんが、そこをクリアして、鈴木力衛氏のような素晴らしい翻訳が出て来ないかなと思います」「でもモリエールはルイ14世もお気に入りの戯作者だったんだから、古めかしい気がするけど」「取り上げる題材が今でも十分通じるもので、しかも読みやすい。吉本新喜劇や浅草の劇場での芝居も共通するところが多くあると思います。ただ医者を悪者にするのは抵抗があります。『守銭奴』『スカパンの悪だくみ』も浪人時代以来39年ぶりに読んだのですが、いくつかの台詞は懐かしく読みました。『なんだってまた軍艦なんぞに乗りこんだんだ?』(『スカパンの悪だくみ』ジェロントの台詞)は合計6回繰り返えされますが、そのたびに可笑しみが増幅されます。平凡な手法ですが、爆笑を誘います」「ぼくもそう思うよ。普遍的な手法というか。だからモリエールの笑劇はいつまでも生き続けるだろう」「そうしてモリエールを一通り読み終えたところで読んだのが、ディケンズの『クリスマス・カロル』(村岡花子訳)『大いなる遺産』(山西英一訳)でした。当然のことながら、当時の私の読解力ではほとんど理解できませんでした。ただ、ピップとジョーの友情というのが心地よく残りました。人生でくじけるようなことがあってもジョーのようなやさしいおじさんが看病して社会復帰させてくれるのかなとぼんやり考えたくらいでした。「なつかしいジョー」という呼びかけも心に残りました」「君は『大いなる遺産』を何度読んだのかな」「山西英一訳を2回、佐々木徹訳、日高八郎訳、石塚裕子訳各1回ですから、5回ですね」「今後も読むんだろうね」「もちろんです。ディケンズの新訳をこれからも読んでいきたいのですが、特に『大いなる遺産』は興味があります。モリエール全集を読み終えたら、山西英一訳をもう一度読んでみようかと思います」「そうかようやくディケンズに戻るんだね。これから5年くらいはディケンズの小説だけを読んでもいいんじゃないかな」そうアドバイスをされたN先生は、茨木市駅に着くと駆け足で特急電車に乗り換えられ京都方面に向かわれたのでした。