プチ小説「正直人の憂鬱」

正直人(まさなおと)というのは、彼の名で姓名ではない。では姓は何かと言うと、真野(まの)と言う。彼は幼い頃から本に親しみ、小学生の時にはある出版社から出た少年少女文学全集を読破したということで、神童が現れたと近所で有名になった。しかしながら中学生になるとより手軽に感動が得られる、映画、アニメ、音楽、漫画などへと傾倒していき、平凡な中学生活を送った。彼は数学ができなかったので勉強にも身が入らず、大学受験に失敗し、二浪して私立大学の法学部に入学した。彼が大学生になれるまで、孤独な受験生だったかと言うと決してそうではない。テレビで放送された名画は欠かさず鑑賞したし、感度的なアニメには止め処もなく涙を流したし、爆笑するアニメでは同じところで何度も大爆笑した。音楽は当時流行していたフォークソングだけでなく、イージーリスニングを中心に色んな種類の洋楽を聴いた。また高校時代は写真部に所属し、月に一度は撮影会に参加し年に一度は合宿に参加した。
彼は浪人時代にイギリス文学に興味を持ち始め、最初はサマセット・モームのファンだったが、モームの『世界の十大小説』を読んで、19世紀のイギリス文学に興味を持ち始めた。趣味に没頭しがちな彼は法学部の勉強は二の次にして、イギリス文学を読むのにに多くの時間を割くようになった。彼は、『デイヴィッド・コパフィールド』を読み終えた後、『大いなる遺産』『二都物語』と読み進んだ。ちょうどその頃近所に自分の再来と言われる中学生が現れたとの噂を聞いた。なんとそれは自分の隣の家に住むはじめで、はじめは近く文化祭でディケンズの『クリスマス・キャロル』を劇にして上演すると聞いた。
<はじめ君はぼくに興味津々で、『クリスマス・キャロル』を劇で上演する予定で、ぼくの指導を受けたいと言っているみたいだけど、はじめ君が納得するようなアドバイスをしてあげられるかな。おや、外でぼくを呼ぶ声がするぞ>
「正直人さん、いますかー」
「やあ、はじめ君じゃないか。ぼくに何か訊きたいことがあるのかな」
「そうです。お時間を取っていただけないですか」
「そうか、じっくりと時間を取って話をしたいんだね。それじゃあ、家の中に入って」
家に入り、正直人の部屋に入ると文庫本用の本棚2つに文庫本と新書が隙間がないほど並べられているのが、目に入った。
「すごいなあ。これを全部読んだんですか」
「すごくない、すごくない。ぼくの友人なんかもっとたくさんの本を読んでいるから」
「でもディケンズの文庫本が全部ここにあるから、ぼくの望みを叶えてもらえんるじゃないかと思うんです」
「そう、でその望みとは」
「ぼくは以前からディケンズのファンで、彼の作品のどれかを劇にしたいと考えてきました」
「朗読会ではなく劇をかい」
「そうです。それでディケンズの作品のいずれかを文化祭で上演する劇用台本にしないといけないのですが、それについてヒントがいただけたらと思います」
「ディケンズの著作は膨大でとても20分ほどの劇には収まりそうにないけど」
「最初から、諦めないでください。これにはぼくの人生がかかっているんです」
正直人は、えっと驚きの声を上げたが、その後は、『大いなる遺産』のマシュー・ポケットがするように両手で頭を挟み何度も身体を持ち上げようとした。
「はじめくんの気持ちはわかるけど、文庫本で100ページ以上もあるのを20分の劇にするのは無理だと思うけどなあ」
「でもぼくは手を挙げてしまったんです。文化祭まであと2週間しかないんです」
正直人はまたも両手で頭を挟み身体を持ち上げようとしたが、今度も上手く行かなかった。
「例えば、ディケンズは生涯を通してたくさんの短編を創っている。そのいずれかを取り上げて、ディケンズの作品を劇にしたというのは駄目なのかな」
「ディケンズの『クリスマス・キャロル』を劇ですると宣言したので、後に引けません」
正直人の三度目の試みも上手く行かなかったが、頭を挟む代わりに、腹話術の人形のように、頭の天辺から裏声で、お前知っとるやろーと歌うとはじめが反応した。
「そうか地道に重ねることばかり考えていた。端折れるところを思いっきりなくせば、収まるかも。ねえ、正直人さん、ぼく思うんですけど...ここをこうして...」
「うーん、君は天才いやプチ文豪だよ。ははは」
「まさなおとさん、本当にありがとうございました。またよろしくお願いします」
「あ.ああ..またおいで」