プチ小説「こんにちは、ディケンズ先生27」

小川は、名曲喫茶ヴィオロンに行く途中、先日ディケンズ先生が夢の中で言っていた秘策を反芻していた。
「ティケンズ先生は、ただ、「言葉の力を信じて、難局に当たれ」とだけ言っていたけれど、どういうことかな。
 今日は秋子さんはアユミさんと一緒に来ると言っていたけれど、もう来ているかな。やあー、来ているね。
 でも、どうしたの、ふたりともそんな顔をして...」
「実は、前から思ってはいたんだけれど、アユミさんが座るには少しスペースが小さいみたい。アユミさんはどちらかというと
 活発な方なので...。いいえ、よしましょう。1回目は顔見世興行みたいなものなので、「なかなか、面白いな」と思って
 いただけたら、それでいいんじゃないかしら」

コンサート前半は、ブラームスのクラリネット・ソナタ第2番とシューベルトのアルペジョーネ・ソナタで、どちらかというと
知られていない曲だったためか、入りは半分くらいであったが、後半の前の休憩の間に続々とお客さんが詰めかけ、店内は
通路も立ち見のお客さんで一杯になった。そろそろ始めましょうとの秋子の言葉に、小川は店の奥にある大型スピーカーの前に立った。
「それでは後半に移らせていただきます。前半は純粋なクラシック音楽を聴いていただきましたが、後半は、クラシック、ジャズ、
 ポピュラー、よく知られた日本の音楽をお聴きいただきます。お聴きいただくとクラリネットの味わい深い音に感銘されることと
 思います。それは楽器本来の音だけでなく、その人の性格も反映されるからであります。司会者個人は、幸いにも聴衆の方々より
 少し演奏者と親しくさせてもらっていますが、明るい素直な性格はしばしば私を励ましてくれました。また人懐っこい笑顔は
 彼女の優しい心がそのまま映し出されたものなので誰しもがやすらぎの気持ちを持っていただけることと思います。そんな素敵な
 女性が選曲して演奏する名曲の数々をお楽しみ下さい。曲の解説については曲の合間に少し語らせていただきますが、基本的には
 彼女たちの演奏の邪魔にならないようにしたいと思いますので、チラシをご参考下さい。それではごゆっくりどうぞ」
そう言って、小川が秋子に目配せすると秋子は少し目を潤ませていたが、すぐに楽譜に手をやり楽器を取ると、ロンドンデリーエアを
演奏し始めた。

コンサートは終わったが、万雷の拍手は鳴り止まなかった。秋子はアンコール用に何曲かを用意していたが、それでもお客さんが
席を立とうとしなかったため、それまで口を開かなかった秋子自身が口を開いた。
「先程、司会をされている方から、お褒めの言葉を頂戴いたしましたが、私はそんなに偉くないので...、恐縮なのですが、今回の
 コンサートでいろいろとお世話になった、司会者の小川さんのために次の曲を捧げたいと思います。アイルランド民謡の「春の日の
 花と輝く」です。変わることなく、慕ってもらえることを念じて...」
小川は心から秋子の心遣いと思いやりのある言葉に打たれ、涙が溢れ出て止まることがなかった。小川はここは当然秋子に駆寄り、
抱きしめてもよいところだと思った。演奏を終えて再度の万雷の拍手に応えているふたりに駆寄ろうとした小川は目が潤んでいたためか、
少しバランスを崩し下を向いた。そしてそのまま秋子のいたところへと進んで行った。小川はそのまま手を広げて、秋子を包み込もうと
したが、そこには素早く体を入れかえたアユミがいた。
「小川さんって、実は私の好みのタイプだったの。でも恥ずかしくてなかなか、言い出せなくて...」
小川は両腕の筋肉を精一杯きかせて、ほんの手前で手を止めた。