プチ小説「父親の背中」
還暦から1年が過ぎた。こうなると自分の人生を反省するということはないが、省みるという機会はよくある。最近、よく頭に浮かぶのは、3年前に85才で亡くなった父親のことである。
父親は岡山県の山間部で生を受け、高等小学校卒業後、国鉄職員となり、最初は広島で勤務していたが、20才前後で大阪に出てきた。28才で結婚し、3人の子供をもうけたが、私の最初の記憶は、4才年が離れた妹が市民病院で生まれて、タクシーで自宅に帰ったというものである。
その後ずっと記憶はなく、ある晩、酒宴で午後8時になっても帰宅しない父親に対して母親が愚痴を溢していたことを覚えている。とにかく父親は典型的な鉄ちゃんで、工場での労働を終えた後、毎日3時間は工場近くの酒屋で安酒を飲んでいた。そんな毎日が続いていたのだが、私と年子の弟が小学校に入った頃から、ほとんど毎日帰りしなに外で飲んでいた父親が少し回数を減らした。それは母親が子供たちのこれからの教育費のことを考え、父親を説得したのだと思うが、ここに詳しいことは書かない。私が小学校の4年生くらいになる頃には、父親はテレビで巨人の試合を見るために午後6時30分頃には家に帰り、食事をとった後、少しだけお酒を飲みながら、野球観戦をするようになった。また休日よく馬券を買ったりしていたが、近くの山の壁面を耕して、大根、サツマイモ、ジャガイモなどを作るようになった。母親も本屋さんでパート勤務をしたこともあって、3人の子供はひもじい思いをせずすくすくと育った。それでも私が中学2年の頃に酔って自転車に乗って帰宅していた父親が電柱に激突して大けが(頭部にけがをして、太ももの皮膚をそこに移植した)をしたことがあった。お付き合いで同僚と飲むことがたまにあったが、その日を境に遅くまで飲むということはまったくなくなった。
父親のことを思うときもう一つ思い出すことがある。それは真っ黒なビニール製のジャンパーに沁みついたタバコの臭いである。当時は父親の匂いとして心地の良いものとしていたが、いつの頃からかタバコが嫌いになった私には、黒いジャンパーだけが残るようになった。父親は40才を過ぎた頃に職場の長を任されるようになり、ストレスから十二指腸潰瘍を患い、天王寺の鉄道病院に入院した。その入院中に医師から喫煙を止められたようで、毎日ハイライトを1箱は吸っていた父親が、それ以降はまったく吸わなくなった。これも家族のことを思ってだったんだろうか。
私は、高校を卒業して大学に入るまで時間がかかった。その間母親はきびしく私を指導したが、父親は特に何も言うことはなかった。苦労して大学に入った時、母親からお祝いの言葉があったが、父親からあったかははっきり覚えていない。大学に入っても就職が保証されたわけではないので、お祝いの言葉は職に就いてからと考えて、言わなかったのかもしれない。
そんな喜びを顔に出さない父親だったが、退職金で中古の家を購入し、3人の子供が無事就職をして(就職したのは私が最後だったが)から、パート勤務で稼いだお金で日本各地を旅行するようになった。また2人の孫の成長も父親の大きな楽しみになった。55才の前に国鉄を退職して20年余りが、父親の黄金時代だったと思う。この頃の父親はいつもにこにこしていたと記憶している。それまでの苦労が報われたということだが、苦労した頃にほんの些細なことでも喜べる感覚を身に着けたのだと思う。大金を手に入れることや大きな業績だけが人生の目的と考えていたら、人生に失望していたかもしれない。
そんなささやかな父親の人生も80代半ばで幕を閉じた。最後の1年半は腎臓がんを患っての闘病生活だったが、亡くなる2年前にふと私にこぼした言葉が心に残っている。
「にいちゃん、最近なあ、焼酎を入れたガラスコップ持てんようになった。今までやったら、そんなこと考えんと(器の中の)酒のことしか考えんかったのに。酒を楽しむことだけを考えられんようになったんや。プラスチック製のコップに替えることにしたんや」
晩酌を一緒に楽しむために酒の肴を買って帰ったことはしばしばあった。一度だけでもふたりで酒場に入っていたら、その時の父親を心に焼き付けて思い出せただろうに。惜しいことをした。