プチ小説「こんにちは、ディケンズ先生28」
小川は渾身の力でアユミとの接触をあと1センチのところで免れたが、そのあとどうするかが問題だった。今度はアユミ
の方から手を伸ばして来たからだ(どうも前半が終わった後の休憩の時にブランデー入りの珈琲を飲んで、してはいけない
ことに対する歯止めが効かなくなったようだった)。いろんな考えが浮かんでは消え浮かんでは消えしていたが、最初に
浮かんだのは巨躯の女性に対して格闘技で身を守ることだった。
〈四つに組んでから頭を付けて上手投げを打とうか、いやいや相手は秋子さんの大切な友人なんだ。これからも演奏会で
お世話にならなければならないのだから、友好的な態度をとらないと...。ディケンズ先生は、「言葉の力を信じて、
難局に当たれ」と言っていたが、とりあえずはその方向で行ってみるか...〉
小川は秋子の面前でアユミにしっかりと抱きつかれるのは何としても避けたかったので、電光石火の早業でその場に
しゃがみ込み、アユミのたくましい腕を躱した。やり過ごして少しばかりアユミの勢いがなくなったところで、右腕をつかんで
すぐに手を握った。
「アユミさん、どう、楽しかった?いろいろと今日はありがとう。おかげさまで、秋子さんも満足できるライヴができました
。
これからもよろしく」
「まあ、小川さんたら、これからもよろしく...だなんて。こちらこそ、これからもよろしく。ほほほほほほ」
その後、マスターが気を利かしてレコードをかけたので、三々五々客は家路についた。アユミもしばらくそこに留まっていたが、
用事があるからと家へと帰って行った。
「小川さんも気付いたでしょうけど、アユミは少し活発なところがあってそこが玉に瑕なんだけれど、とっても信用できる
人なので、これからもライヴの時の伴奏はアユミさんにお願いしようと思うのよ」
「うーん、でも、ライブの時だけではすまなくなるような気がするけど...。夜行バスで帰るんでしょ。送って行くよ」
その夜、夢に出て来たディケンズ先生は沈痛な面持ちだった。
「小川君、本当に残念だったね。でも、人生は長い。チャンスはいくらでもあるから...」
「先生、でもあんまりです。理不尽ですよ。あれだけ、ふたりで一所懸命準備して、ふたりが思いやりのある言葉を交わして
感動の頂点でひしっと抱き合おうとした刹那、黒い影がやってきて、それまでのことがなにもなかったようにしてしまった。
しかも、これからもよろしく。ほほほほほほだなんて」
「まあ、君と秋子さんは艱難辛苦を共にして大きくなって行く運命なんだ。私も応援するから、頑張るんだよ」
「わかりました。それが運命と言われるのなら」
「そうだ、忘れるところだった。秋子さんが私のリクエストに応えて、「春の日の花と輝く」「グリーンスリーブス」「ロンドン
デリーエア」を演奏してくれたことに感謝している。そこでささやかだが、君たち二人に贈り物をしようと思う。期待して
待っていたまえ、ではまた」