プチ小説「クラリネット事始め」
小福は、高槻市駅前にある楽器店の前で、楽器を見ては遠ざかり、顎に右手人差し指の腹を当てるという仕草を10回ほど繰り返していた。それを見かねた店員が、何かお求めですかと尋ねたので、小福は、これは運命づけられたことなんだと呟きながら、店員の後に続いて店に入った。店員は40才くらいの男性で、小福より若かった。
「どんなことでしょう。楽器のことですか」
「ええ、実は...とても恥ずかしくて言えない」
そう言って、小福が真っ赤な顔をして黙ってしまったので、店員は自己紹介をすることにした。
「私は、小久保と言います。この店に来て3年になりますが、お役に立てればと思います」
「あなたは何か楽器をされますか」
「ピアノを少し。それから、楽器店で働いていますから、一通りのことはわかります」
「私が習いたいと思っているのは...いや、よそう」
「ははは、...ごめんなさい、笑ったりして、でも、楽器が何か教えてもらえたら、少しはお役に立てるかもしれません」
「じゃあ、思い切って言います。クラリネットなんです」
「そうですか、ぼくもクラリネットを少し習ったことがあります」
「少しだけですか...」
「ええ、こういう楽器のチェーン店で働いていると、わりと気軽に楽器が習えるんです」
「なぜ続けて習わなかったのですか」
「やはりリード楽器ということで、音を出すのが難しいということがあります。特にクラリネットは、サックスよりも音が出しにくく、指もややこしいと聞いています...。でも、心配することはありません。先生が音の出し方からきちんと教えてくれますから」
「ぼくは、ピアノやギターはコードが理解できないので、弾けないと思っています。今でも、なぜコードに合わせて、歌が歌えるのか不思議だと思っているくらいですから。それにチューニングができません。それで、プッと吹くと正しい音程の単音が出る楽器を習うのがいいと思いました。それでトランペット、サックス、クラリネット、フルート、リコーダーなどが候補に上がりました」
「なるほど、ということははじめて楽器をされるのですね」
「いいえ、正確に言うと、トランペットは半年くらいの独学でローレライが吹けるくらいになりました」
「ほう、それはなかなか」
「でも、独学だったから、半音が鳴らせなかったし、ある日、自分が鳴らしている音は騒音に過ぎず、周りの人に迷惑をかけていると思い、トランペットを4万円で買ったのですが、やめました。浪人時代でしたし。それからリコーダーは中学時代に、いやいや吹かされたという記憶があるので、楽しんで吹けそうにないですね」
「じゃあ、何がいいですか」
「実は、後のふたつも理由があって、消去することができます。サックスは音が大きいので、自宅で練習できない。フルートは正面から息を吹き込まないのでやりにくそうというのがあります」
「ということでクラリネットですか。でもクラリネットも結構大きな音がしますから、自宅で気軽に吹けると思っていたら、ある日近所から苦情が出るかもしれません。また先ほども言ったようにリード楽器なので、すぐに音が出せないこともあります」
「私がクラリネットを選んだ理由がいくつかあります。ひとつはさっき言ったように、きちんと押さえれば正しい音が出る」
「詳しいことはわかりませんが、クラリネットも発表会の前などはチューニングをします。人により音程の差が出るようです。楽器が冷たいと音程が合わないということもあるようです」
「それから音域が広いので、いろいろな曲が演奏できる」
「ええ、そうですね。低いミから2オクターヴ高いソまで出すことができますから、いろんな曲が演奏できます。またいろんなジャンルの曲が違和感なく吹けますね」
「それから合奏もしてみたいと」
「それなら京都の阪急烏丸駅近くにある四条店で習われるのがいいでしょう。高槻店ではクラリネットのレッスンはしていないんです」
「楽器はどうすればいいですか」
「マウスピースとリードがあれば、楽器をお貸ししますが、練習も必要ですし、マイ楽器をお持ちになられることをお勧めします。ヤマハのYCL-650あたりが手頃だと思います。そう、価格は17万円くらいかな。1年ローンで購入され、その後、クランポンのRCなんかを購入されるのがいいと思います。RCはみんなが勧めます」
「そこまで行けるかどうかわかりませんが、今日はとりあえずマイ楽器としてYCL-650をここで購入して、四条店でレッスンの申し込みをしてこようと思います」
「そうですね、早い方がいいですね。来月から習われるのなら。楽器は2、3日で届きます。じゃあ、こちらの申込用紙にご記入ください」