プチ小説「希望のささやき12」
その日、原田は体調がすぐれず、会社を早退して帰途についていた。電車に乗って、ふと前の席を見ると、どこかで見たことがある顔がにっこり微笑みかけた。
「原田さんじゃないですか。高校卒業して以来ですね」
「申し訳ないが、君の顔に覚えはあるが、名前が出てこない。よろしければ、名前を言っていただけないか」
「ちょっと残念だな。でも同じクラスで、原田さんは目立っていたし、ぼくの方はこれといって取得があるわけではなかったし」
「そうだ、岩井、岩井君、じゃなかったかな」
「正解です。でもわれわれのように成人式を3回したくらいの年齢だと、人の名前をきっちり覚えている人は少数派です。だからぼくは名前を覚えていてもらえなくても仕方ないかなと思うんです」
「でもさっきは残念そうじゃなかった?ぼくなんか、50才くらいから、顔と名前が一致しなくて困っているんだよ」
「でもお仕事は続けておられるんでしょう」
「まあ、ぼくらの世代は高齢になっても働かないと安定した暮らしは保障されないから」
「確かに自分で働いて稼いでるうちは、ある程度、やりたいことができますからね。原田さんは何か趣味をお持ちですか」
「60才を過ぎても山登りは続けている。50才頃のように北アルプスに行くようなことはないが、日帰りで、琵琶湖西側の比良山系や奈良県内の山にはよく行くよ。それから写真かな」
「そう言えば、原田さんは写真部員でしたね。今の時代は便利になりましたね」
「そうだね、デジカメで撮っておけばプリントしてもらうだけだからね。フィルムを現像したり、引き伸ばし器で印画紙に焼き付けたのを、現像液、停止液、定着液の順に浸して作品にするという手間がなくなったのは革新的だった。今なら、全部家でできるんじゃないかな。ところで岩井君の趣味はなんだっけ」
「高校の時は映画をよく見ていましたが、浪人の頃からクラシック音楽を聴くようになり、レコードも随分購入し、再生装置にも凝りました。一通り聴いたところで、自分でも楽器を演奏したくなって、クラリネットを習い始めました。もう10年になります」
「10年か。10年も習ったら、大分吹けるんだろうな」
「いえいえ、今でもゆっくりしたテンポの曲を演奏するんです。中学や高校の時に楽器を習っていた人と違って、指の動きはいまいちですし、なによりアーティキュレーションはさっぱりです」
「アーティなんだって」
「簡単に言うと楽譜の棒読みでは曲が生きないので、タンギング、スラーなんかでその曲に命を与えるんですよ」
「山は体力に合わせて選ぶことができるけど、楽器はどうかな」
「クラリネットはそれほど息を吹き込まないでいいから、あと10年くらいは続けられるんじゃないかな」
「ずっと習っているの」
「クラリネットは独学では無理でしょう。これからも続けたいですが、レッスン料もいることですし、働かなくては」
「そうだよな。働いているうちはそういった費用を工面することができるけど、働けなくなったらやめるしかないか」
「そうですね、僕の場合、練習はスタジオでしていますし...まあ、ぼくたちは今の若い世代よりずっと恵まれていると思いますから、精一杯働いて、休日は趣味に興じればいいんじゃないかな」
「でも昔みたいに稼いでいないから、カミさんに相談しなくっちゃ」
「そうですね。船場さんみたいじゃないから」
「???」