プチ小説「こんにちは、ディケンズ先生30」

小川は、久しぶりに神田の古書街を訪れた。確認したいことがあったが、最近は公私ともに忙しい日々が続き
なかなか来れないでいた。風光書房の店内に入ると他の客はなく店主が笑顔で会釈したので、小川はさっそく
そのことを尋ねてみた。
「実は、知りたいことがあるんです。以前にも話したことがありますが、私はディケンズ先生のファンで先生の
 翻訳物を楽しんでいるのですが、学生時代に「ピクウィック・クラブ」「オリヴァー・トゥイスト」「クリスマス・
 キャロル」「二都物語」「大いなる遺産」を読み、就職してからは古書で、「骨董屋」「バーナビー・ラッジ」
 「荒涼館」「リトル・ドリット」を読み、今度「マーティン・チャズルウィット」を読もうとしています。
 未完の「エドウィン・トルードの謎」は持っていますが他に何か翻訳物はありますか(注:この物語は1980年代
 後半を想定しています)」
「今のところ、それくらいでしょうか。昭和の初めにに出た、「ニコラス・ニツクルベイ物語」というのがあるようですか、
 これは全訳かどうかわかりません。この本は当店にはありませんが、装丁を竹久夢二がしているようなので一度見てみたい
 気はしますね」
「そうですか。どうもありがとう。ディケンズ先生のがないんだったら、今日は平田禿木訳のラムの「完譯エリア随筆(上下)」
 というのが面白そうだから、買って帰ります」

その日の夢に出て来たディケンズ先生は、饒舌だった。
「小川君、君はわざわざ私の著書を調べに行ってくれたのだね。あの店主が言っていたように今翻訳で読める主要作は、小川君が
 言っていたものくらいだ。需要があるので、あと20年以内に「ニコラス・ニクルビー」「ドンビー父子」「ハード・タイムス」
 「互いの友(我らが互いの友)」が出版される予定だが、それまで二人が結婚するのは遠慮してくれなどとは決して言わないから」
「先生、ぼくは秋子さんに、自分が彼女と結婚する意志があることをはっきりと言えたことはありがたいと思っています。暗闇の中から
 啓示のようにほのめかされれば、誰だって神様からのありがたい言葉と思って、その通り行うでしょう」
「おいおい、私は決して神様ではないよ。ただ、善良な小川という青年の脳の片隅に居候している者さ」
「それじゃー、妖精みたいなものですか」
「少し違うな。前にも言ったが君の脳内で起きていることで普段君が頭の中で想像するものと変わりがないんだよ。ただ君は
 私に対して他の人の100万倍くらい思い入れが強いので、ひょっとした切っ掛けがあれば顔を出すことになるんだ。でも、
 君が「マーティン・チャズルウィット」を読み終えて、秋子さんと結婚したら、しばらくはお別れになるかもしれないよ」
「先生、それは本当ですか」
「まあ、小川君がバイリンガルで私の本を原文で楽しんでくれるのなら、話が少し変わって来るのだが...」
「それは...」