プチ小説「希望のささやき」

ゆりえが家に帰ると、母親が掃除機をかけていた。今日は月曜日なので、母親の書店でのパート勤務は休みだった。
ゆりえは、前から言えないでいたことを思い切って母親に言ってみた。
「おかあさん、あのね、お願いがあるんだけど...」
「なにかしら。でも、英語を習いたいって話は駄目よ」
「なんでわかったの」
「それはね、この前、万博(註:大阪万博 この物語は1970年を想定しています)に行った時に、外国人が
 自分の国の言語で話すのを見ていて、習ってみたいって言ってたからよ」
「そうか」
「でも、それは無理よ。ゆりえは1年生の時からお習字に行っているし、3年生からは算盤を習っているじゃない。
 家はそんなに裕福ではないから...」
「でも...」
ゆりえは諦め切れないので、しばらく母親が掃除をするのを見ていたが、掃除機の雑音に混じってやさしいおばあさんの
声が耳元で聞こえた。
『英語を習いたいのに習えない。可哀想じゃのう。子供の向上心を親が断ち切るようなことがあってはならないし、きっと
 あなたのおかあさんももう一声を待っているはずよ。正面からせがむより、やんわりと言ってみたら。おかあさんは大阪出身
 だから、きっと有名人に弱いはずよ』
「そうか、わかったわ」
ゆりえは、ぽんと左掌を右の拳で軽く叩いた。
「どうしたの」
母親は掃除機を止めて、ゆりえの言葉を待った。
「おかあさん、私が一所懸命勉強して外国人と話せるようになったら、お母さんの好きなイーデス・ハンソンさんやクロード・
 チアリさんとも知り合いに成れるかもしれないわよ。そうしてもっと大きくなったら、おかあさんを世界中に連れて行って
 上げるから」
「そ、そうね」
母親はしばらく目頭を押さえていたが、
「ありがとう。今晩、おとうさんが帰って来たら、相談してみましょうね」
そう言って、ゆりえのほおをなでた。