プチ小説「肩透かし合うふたり」

病院事務員の田中は、入職して10年になる。本来なら、身を固める時期であるが、仕事が忙しく毎日が疾風怒濤のように過ぎて行った。今日も工事の立ち合いのため、休日出勤するところだった。電車からホームに出て、階段を下りようとすると、病棟で何度か話したことがある看護婦と目が合った。
「あら、田中さん、今日、お仕事があるの」
「ああ、あなたは病棟の...」
「原田よ。よーく覚えておいてね」
「またそんなことを言って、ぼくを誘惑しても駄目ですよ」
「まあ、そんなつもりは全然ないわ」
「じゃあ、何で原田さんをよーく覚えておかないといけないんですか」
「それは、あなたの助力が必要な時があるからよ」
「どんな助力?」
「もちろん、仕事でよ。他に何かある」
「ははは、そうですね。仕事以外にあるはずないですよね」
「そうよ、あるはずないわ。でも私、映画に興味があるからそういう話なら、少し聞いてもいいかなと思うの」
「えー、映画ですか。最近、2本立てで1000円とかでやっていないので、映画館には行っていないなぁ」
「じゃあ、言っても無駄ね」
「でも山登りの話なら何時間でも話せますよ」
「そう言えば、最近、田中さん逞しくなったわね。筋トレとかしているの」
「警備員の隊長の橋本さんに教えてもらって。橋本さんは空手の先生もされているんですよ」
「そうなの。でも私、格闘技にはあんまり興味はないわ」
「そう、筋力が付いたので、この夏、槍・穂高に行こうと思うんです。でも遭難しないように準備をしないといけない」
「実践トレーニングをするわけね。ハイキングなら付き合ってもいいけど」
「いえいえ、そんな甘いことを言っていては、遭難します。これから2ヶ月ほどは比良山系に6、7回は行かなければならないんです。孤独な戦いが待っているんです」
「田中さんが決めたの」
「ええ、自分の身を守るためなら、それくらいしないと駄目ですね」
「でも1回くらいなら、びわ湖バレイでのんびりするのもいいんじゃない」
「いいえ、トレーニングを欠かすことは危険なんです。そうだ、JR蓬莱駅で降りて、ロープウェイではなく、歩いてびわ湖バレイまで登るというのはどうですか。それなら、十分トレーニングになるし」
「そうねえ、考えとくわ。ああ、もう病院に着いちゃった。お疲れさまでした。また今度」
「お仕事頑張って下さい」
「田中さんも」