プチ小説「冬山には行かないの」
里中は、久しぶりに登山靴を履いて山道を歩いていた。前日に映画「氷壁」のDVDを見て、連休を利用して山に行きたいと思ったのだった。最初はいつも行く、比良駅で降りて武奈ヶ岳山頂を目指すコースを考えたが、久しぶりの登山で初秋だったため、時間がかからない金剛山から葛城山の縦走を選んだ。葛城山の山頂近くで休もうとわき道に入った時に里中と同じくらいの男性が声を掛けて来た。
「お疲れ様です。ずっと後についてきたんですが、なかなか休まれないんで、すごいなぁと思いました」
「いえいえ、私なんか初心者と変わらないですよ」
「と言うと昔は本格的な登山をされていたんですか」
「槍・穂高方面に7回行きました。後は八ヶ岳に2回くらいでしょうか。10年前の話ですが」
「ほう、槍なら、槍沢ロッジ泊、槍ヶ岳山荘泊、徳沢泊という行程で行けそうな気もしますが...」
「そうですね、それならゆっくり景色を楽しみながら登れるでしょうね」
「でも、あなたは穂高にも行かれたんでしょ」
「ええ、私の場合、休暇が4日しか取れなかったので、午前11時前に上高地を出発して槍沢ロッジで一泊、翌日は南岳小屋まで行き、3日目は穂高岳山荘まで...とここまで7回のうち3回は行けましたが、その先は結局行けませんでした。ザイテングラードを下りたんです」
「天候が悪かったのですか」
「そうですね、それもありますね。その後、奥穂高岳、前穂高岳、を経由して、岳沢、上高地へと下りていくわけですが、ガイドブックなどを見ると前穂高岳のところはみんなリュックを置いて頂上を目指すと書かれてあり、難所じゃないかと...それから紀美子平や重太郎新道は遭難が多いと...この行程を新参のものが雨の中を行くのは危険だと思いました。とても滑りやすいところがあると聞きましたから、雨の可能性がある日は止めておこうと思っていたので、結局その先は行けず仕舞いです。それから、あなたは、映画「氷壁」を見たことがありますか」
「ええ、登山用品の安全性に一石を投じた小説を映画化したものと理解していますが、菅原謙二がかっこいいので、憧れて穂高に行かれた方もいるんじゃないですか」
「そうですね、その映画で遭難するのが、前穂高岳の壁を登っているところでなんです。だから前穂高岳は危険なところという考えが私にはしみ込んでいます」
「だから天気が良い時に冷静な判断をして下りて行こうというわけですね」
「そうです。それとこの映画を観て、もう一つ思ったことがあります。冬山には行かないということです」
「なんかもったいない気がしますね」
「主人公魚津恭太が冬の山道を歩くシーンが出てきますが、リュックはいつもぱんぱんで横幅は肩幅の2倍くらい、高さは背中とほぼ同じ、スキー、かんじき、アイゼンなんかは途中の山小屋で借りたり、購入したりできると思うのですが、夏に徒歩で登るのと比べて効率が悪く、荷物も増えます。ずっと以前に冬の金剛山に登った時に中腹辺りで路面が滑って困ったことがありました。その頃は峠の茶屋があって、そこでアイゼンを購入して何とか山頂まで登れましたが、茶屋がなければ、滑って骨折していたと思います」
「なるほどそれだけ装備をきちんとしないと危険だということですね」
「そのとおりです」
「ということは危険を伴うので、今後は近くの山だけ...」
「奥穂、前穂の山頂に行きたいという気持ちは今も持っています。もう還暦を過ぎましたが、70才を過ぎた頑強な男性が登っておられましたし、私もそうしたいと...ですが...」
「何でしょう」
「今も働いているので、4連休が精一杯です。全盛期と比較して体力が落ちていますし、上高地―槍沢ロッジ―槍ヶ岳山荘―南岳小屋―北穂高岳―涸沢岳―穂高岳山荘―奥穂高岳―前穂高岳―岳沢―上高地の行程を踏破するのは難しいと思います」
「それじゃあ、どうされるのですか」
「最近、山と渓谷社のDVDを見ていたら、横尾大橋を渡って、涸沢に出て、ザイテングラードを登るのは私でもできるんではないかと思ったのです。北穂高岳経由だとより危険で時間もかかりますし...朝一番のバスで松本を出発すれば、涸沢ロッジに午後4時までに到着できるでしょう。2日目は穂高岳山荘に宿泊しますが、奥穂高岳まで一度行っておけば、3日目は奥穂高岳を通過して前穂高岳の登山がゆっくりできます。その後は足元に気を付けながらゆっくりと上高地まで下りればいいんです」
「なるほどそれなら4日でも可能ですね。わたしも今から頑張って、槍ヶ岳には一度行ってみたいと思っているんです」
「時間を掛けてなら可能だと思いますが、一泊目を槍沢ロッジで泊れるように頑張ってみてください」
「そうですね、近隣の山で体力をつけますよ」