プチ小説「モーツアルト好きの方に(仮題)」
太郎は家に帰ると、母親に声を掛けて、自分の部屋に籠った。そうして部屋の窓をあけると、耳を澄ました。最近、隣に引っ越しして来た家族が音楽好きで、ピアノやクラリネットの音が漏れて聞こえることがあったからだ。防音設備をしてあったが、たまに窓を開けていることがあり、そんな時はピアノの音などがよく聞き取れた。母親の話によると、両親と高校生の女の子の家族で、3人とも趣味が音楽演奏で、演奏会もしているとのことだった。隣家の父親がクラリネットをたまに吹くことがあって、ユモレスクやトロイメライを吹くこともあったが、太郎が知らないポップスやシャンソンを吹いていることが多かった。
太郎の母親が音大出身だったので知らない曲が聞こえてくると、太郎はすぐに母親に尋ねた。
「お母さん、今ピアノで演奏している曲は何という曲なの」
「前にも言ったけど、当てずっぽうでもいいから、『モーツァルトのソナタ何番かな』とか自分で答えを言ってみて」
「そんなこと言ったって、僕が知っている作曲家は、モーツァルト、ベートーヴェン、バッハだけなんだから...」
「いいの。その3人のうちのひとりだから」
「じゃあ、モーツァルトのピアノ・ソナタ」
「だめよ、それだけじゃあ。第何番まで言わないとモーツァルトは17曲のピアノ・ソナタを作曲していて、有名なトルコ行進曲が入ってるソナタは、第11番なの」
「じゃあ、当てずっぽうで第8番でどうかな」
「ピンポーン。凄いわね。なぜわかったの」
「お母さんが前にモーツァルトのピアノ・ソナタは、8と11がいいって、言っていたから」
「その通りだわ、それで今弾いているところは第何楽章」
「えーと、ソナタ形式のゆっくりした楽章は真ん中の第2楽章って言われているけど、この曲は定石通りだと思うから、第2楽章かな」
「大正解。お母さんは、この曲が大好きだから、隣に引っ越ししてきた人が上手に弾いているのを聴くと心が弾むわ」
「僕も次はどんな曲が聴けるのか、楽しみだよ」
「あっ、曲が終わった。次は何かしら、ああ、なるほど、次もお母さんが大好きな曲だわ」
「なんという曲なの」
「ベートーヴェンのピアノ・ソナタ第15番「田園」の最初の楽章よ。ベートーヴェンは革新的なことをした作曲家で、第3楽章にスケルツォを入れて、4つの楽章の曲にしているの、まるで田園を歩いているような気分になるから、じっくり楽しみましょ」
「わあ、楽しみだな」
「どうだった」
「ほんとに田んぼの畦道をひとりで歩いている気分になったよ。でも...」
「でも何」
「僕はやっぱりモーツァルトの美しいメロディの方に惹かれる」
「そうね、モーツァルトの美しいメロディが好きな人は、ベートーヴェンやブラームスのような感情移入が激しい音楽は苦手って人もいるから」
「感情移入って、何」
「気持ちが入っているというか...モーツァルトにも作曲する時の苦悩というのがあったかもしれないけれど、モーツァルトは天才だから、美しいメロディが湧き出る泉のように溢れ出たの。でもこの第8番だけは、モーツァルトの感情というものを感じるの」
「ベートーヴェンやブラームスには感情移入があるの」
「ええ、特にベートーヴェンはその感情を五線譜に書き付けたようなところがあるわ。ブラームスも若い頃の名曲、弦楽六重奏曲第1番やピアノ協奏曲第1番なんかはベートーヴェンの作品に似たようなところがあると私は思うわ」
「でも、ぼくはモーツァルトの美しいメロディをしばらくは探したいなぁ」
「そうよね、それに興味をもったら、まっすぐに突き進むのがいいわ。そうして他の作曲家が聴きたくなったら、そちらに行くのもいいと思うわ」
「モーツァルトのピアノ・ソナタ第8番を全曲聴いてみたいなぁ」
「ケンプもいいけど、やっぱりブレンデルかな。週末に出掛けるから、CDを買ってきてあげるわ」
(続く)