プチ小説「ベートーヴェン好きの方に(仮題)」

大学でドイツ語を教えている山根氏は、その風貌から生徒の多くに恐れられていた。背は165センチ足らずだが、肩幅が広く、いつも千鳥格子のブレザーを着ていた。顔の下のところは鰓みたいに出っ張っていたので、笑福亭仁鶴に少し似ていたが、豊かなシルバーグレーの頭髪を一見して無造作に伸ばしていたので、むしろベートーヴェンに似ていると言われていた。山根氏が恐れられていたのは、その風貌もあったが、予習をしていない生徒を厳しく罰し、テストの採点も温情がまったくなかったからだった。その反面、山根に対してよい評価も流布していて、ドイツに3年留学していたことがありドイツの話を授業中延々と話されることがあった。クラシック好きの山根氏はあちこちのホールでオペラや管弦楽のコンサートを楽しんだ話や作曲家では特にベートーヴェンのファンでゆかりの地を訪ねたりした話をされた。独特の髪形はベートーヴェンにあやかりたくて、散髪屋さんに頼んで整髪してもらっているということだった。
中村は1回生から山根氏のドイツ語の授業を受けていて、クラシック音楽が好きな中村は一度山根氏と話がしたいと考えていた。2回生になって最初の授業を終えた帰りに大学近くのバス停でバスが来るのを待っていると山根氏が中村の後ろに並んだ。中村は思い切って、180度方向転換して山根氏に話しかけた。
「先生、山根先生ですよね。1回生からお世話になっている中村です」
「ああ、中村君だね。Iクラスだったかな」
「よくわかりましたね。生徒の名前をみな覚えておられるんですか」
「まさか、Iクラスはみんな優秀だし、怒ることが少ないし、山際、伊藤、安藤のような高校生のように元気で愉快な学生もいるからね」
「そうですか、そういう風に思っていただいているとは、思っても見ませんでした」
「そりゃー、教師と生徒だから、あまり親しすぎるというのも...。あっ、バスが来たけど、君はこのバスに乗るのかい」
「ええ、堀川四条まで行って、阪急大宮駅まで歩きます」
「ぼくは千本中立売で降りる。デラックス東寺と並び称される、千中ミュージックの近くに住んでいるんだ。まだ行ったことはないけど」
「ストリップ小屋のことですね」
「そうだよ。何もそれを特別な目で見る必要はないと思うな。森鴎外の『舞姫』もそんな舞台の踊り子だったと言うし」
「そうですか。でもぼくは先生からクラシック音楽、就中、ベートーヴェンの話を聞きたいと思っているんです」
「そうか、君はクラシック音楽を聴くんだね」
「ええ、だから、こうして先生に話しかけたのも先生から楽しいお話が聞けると思ったからです」
「そうか、それじゃー、聴くけど、交響曲は第何番が好きなんだい」
「第7番ですね。ベートーヴェンの躍動的な側面が見られる最後の曲と言えるんじゃないでしょうか。これ以降耳の病気が悪くなったりして、最後の第9番の交響曲まで、突き抜けて歓喜に至るということがなくなります」
「なるほど、とすると指揮者はフルトヴェングラーがいいのかな」
「そうですね、でもすべてがいいというのではなくて、第5番は1947年盤、第7番は1943年盤、第9番は1951年盤ということになります」
「そうか、君はそのレコードに限るというわけだ」
「そうですね、この3つは譲れませんね」
「ははは、じゃあ、「田園」はどうかな」
「ぼくは明るい浪人生活でなかったんで、明るい曲は余り聴かなかったんです」
「「田園」が明るい曲というのは、後半部分の葛藤というか、苦悩を突き抜けて歓喜に至るところを聴いていないからじゃないのかな」
「そうかもしれません。ぼくは最初の2つの楽章の明るさしか考えなかったのかもしれません」
「残念だなー、もうすぐ千中つまり千本中立売だ。また続きの話をしたいので、来週も必ずこのバスに乗るように」
そう話すと山根氏は中村と握手をしてから、急いでバスの出口へと向かった。

(続く)