プチ小説「ブラームス好きの方に(仮題)」

福江は来月で50才になる。書店で働いてもう30年になるが、配偶者はいなかった。というのも彼は、登山、クラシック音楽鑑賞、写真、旅行、中古レコード漁りと多趣味で、趣味に明け暮れているうちにいつの間にか50になったという感じだった。
福江は金銭的に少しゆとりがあり、時間もやりくり出来そうだったので、長年の夢を実現したいと思った。福江は浪人してからすぐにクラシック音楽のファンになり、しばらくしてモーリス・アンドレというフランス人のトランペット奏者を知った。彼の『超、超絶、トランペット』という、オペラのアリアをトランペットで吹いたアルバムは福江に強い衝撃を与え、手持ちのお金を叩いて、4万円のトランペットを衝動買いしてしまった。彼は教則本を購入して、しばらく奮闘したが、指導者と練習場がなかったことが致命的で、「ローレライ」が通して吹けるようになると、受験勉強をしなければならないこともあって、トランペットは押入れの奥に仕舞われることになった。福江はその時の苦い経験から、今度楽器を習う時はちゃんとした先生についてスタジオで習えるように、また大きな音が出る楽器は避けようと考えたのだった。
福江は隣の駅の近くにある楽器店で、ショウケースの中の楽器を見ていたが、アルトサックスは大きな音が出るので、自宅ではまったく練習できない。でもフルートやクラリネットなら少しは吹けるかもしれない。フルートは横から息を吹き込むので、肺活量が余りない私には向いていないかもしれない。クラリネットは音色も好きだし、リード楽器に興味があるし、思い切って頑張ってみるかとつぶやくとカウンターのその店の責任者らしき人に声を掛けた。
「楽器を購入して、レッスンを受けたいのですが...」
「どの楽器ですか」
「クラリネットなんですが」
「クラリネットねぇ...」
「何か問題がありますか」
「私もこの業界が長くて、いろいろな楽器を習う機会があったのですが、サックスならまだ音が出るが、クラリネットはさらに音が出にくい。それにサックスのようなオクターヴキーがないから、クラリネットは運指がとても難しいと聞いています。うちも音楽教室をしていますが、クラリネットはやっていません。四条烏丸まで行かないとクラリネットの教室はありません。あなたはそれでもクラリネットを習いますか」
「......」
「アルトサックスやピアノなら、うちでもやってますよ」
「いや、私はクラリネットしか駄目なんです。というのもあの音があるから」
「音ですか」
「そうです。実は私はクラシック音楽のファンでして、いろいろレコードを聴いてきましたが、カール・ライスターのブラームスのクラリネット・ソナタ第2番が素晴しくて、いつか自分でクラリネットを吹いてみたいと思って来たんです」
「そうですか、しっかりした意志をもっておられるのですね。それなら中途でやめたりはされないですね。じゃあ、楽器はどうされます」
「最初から高いのは買いません。ショウケースの中に、ヤマハのYCL650がいいと書かれていますが...」
「そうですね。中、高校生の方がよく買われますね」
「じゃあ、とりあえず。これを購入して、うまくなったら、もっといい楽器を購入することにします」
「そうですね、そうされるといいですよ」

福江はレッスンの初日、少し早く音楽教室に着いた。待合で待っていると30代くらいの女性が福江と同じクラリネットが入ったバッグを持っているのに気がついた。視線が合ったので、福江は思い切って声を掛けてみた。
「こんにちは、あなたはもしかするとクラリネットを習われているのですか」
「ええ」
「いつから習われていますか」
「先月からですわ」
「じゃあ、私と同じ初心者ですね」
「まあ、初心者のようなものですわね...中学生までブラスバンドに所属していましたけど」
(続く)