プチ小説「シベリウス好きの方に(仮題)」
大教室での講義が休講になったので、井上は1階にある談話室を覗いた。クラスメイトの小川がいたので、井上は話しかけた。
「秋子さんとうまくやっているのかい」
お「やあ、井上君、4回生になるとほとんど会わなくなるね。就職活動はうまくいっているの」
「もう地元の企業から内定をもらっているから、その心配はない。でもこの講義を落とすと卒業できなくなる恐れがあるから、この講義にはきちんと出ている。小川君はどうなの」
お「出版社から内定をもらっているけど...この講義は興味があるから聴講しているんだ」
「相変わらず、まじめだね。今もクラシックを聴きながら、語学の勉強をしているの。小川君は2回生までドイツ語を習っていて、更に3回生でスペイン語を習うって言った時は驚いたよ」
お「将来、オペラをじっくり聴きたくて、イタリア語と同じラテン語系の言語スペイン語を習っておけば、その時に役に立つと思ったんだ」
「オペラかあ...ぼくはどちらかと言うと、交響曲の方がいいな」
お「いいの、ここでゆっくりしていて、用事があるんじゃないの」
「いいよ、何なら、久しぶりにここでクラシック音楽の四方山話でもしようか」
お「いいねー。何がいい」
「さっき、交響曲の話が出たから、それで行こう」
お「交響曲の作曲家で有名なのは、モーツァルト、ベートーヴェン、ブラームス、ブルックナー、マーラーってとこかな」
「まとまった数の交響曲を作曲したということなら、ハイドン、シューマン、ドヴォルザーク、チャイコフスキー、シベリウスなんかも入ると思うけど」
お「でもドヴォルザークは第7番以降の3曲だけだと思うなあ」
「そうなるとドヴォルザークは外れるのかな」
お「7番から9番までの交響曲が余りに素晴しいから、それだけでもいいかも...」
「ベルリオーズは幻想交響曲の1曲だけが有名だし、サン=サーンスも第3番「オルガン付き」だけだし、フランクは1曲しか交響曲を作曲していない。フランスの作曲家は余り交響曲を作曲していないね」
お「でも華やかな管弦楽曲を多く作曲しているよ。ロシアの作曲家では、プロコフィエフやショスタコーヴィッチがいるけどぼくは好きになれないなあ。ラフマニノフの交響曲第2番はいいと思うけど」
「そうだ忘れてた、シューベルトとメンデルスゾーンを。シューベルトの「未完成」「ザ・グレイト」。メンデルスゾーンの「スコットランド」と「イタリア」は大好きな交響曲なんだ」
お「リヒャルト・シュトラウスの「アルプス交響曲」なんてのはどうかな。リヒャルト・シュトラウスは「ツァラトゥストラはかく語りき」「ドン・キホーテ」「英雄の生涯」などの交響詩と呼ばれる管弦楽曲を作曲しているけど、交響曲は「アルプス交響曲」だけなんだ」
「でもぼくが一番好きな曲は、シベリウスの交響曲第2番なんだ」
お「どうしてシベリウスのその曲なのかな」
「シベリウスは祖国の大きな期待を背負って、ドイツなんかで勉強したけど、彼の心の中には祖国の自然を音で描写したり、昔からある祖国の音楽を自分の音楽に取り入れたいという祖国愛というものが根強くあった。その最初の成果は「フィンランディア」だと思う。シベリウスは自分の音楽を一番うまく表現できるのは交響曲と考えたようで、生涯7つの交響曲を作曲している。彼は91才まで生きたので、もっとたくさんの交響曲を作曲してほしかった気もするけれど、ハイドンのようにこじんまりとした交響曲をたくさん作っているより、最盛期の折に、一番充実した交響曲を作曲できたというのはぼくは十分評価できると思う」
お「シベリウスといえば、第1番、第5番、第7番なんかもシベリウスらしい、フィンランドの厳しい自然を思わせる楽曲だね」
「でもこれだけの曲を学生時代に全部聴けたのは、小川君のおかげだよ」
お「いいや、ぼくたちはクラシック音楽のブームの最中に大学生だったという幸運があったからだよ」
「というと」
お「NHKFMが朝から晩までクラシック音楽の放送をしていた。そのおかげでいろいろな曲をエアチェック(予約録音)できた。きっと5年後10年後には、日本や外国のポップスを流すことが多くなるだろう。だからぼくたちはこれからは地道にレコードを購入するということになる。オーディオに凝ってもいいんじゃないかな。ところでひとつぼくから井上君にお願いがあるんだけど」
「いいよ、言って」
お「これからもクラシック音楽を生涯の友として大切に聴いてほしいんだ」
「きっと仕事で忙しくなるから、今までのように毎日聴くというわけにいかないだろうけれど、クラシック音楽をこれからも聴くよ」
お「それからぼくが君にあげたテープも大切にしてほしいんだ」
「もちろん、学生時代の思い出として大切にするから」
お「それを聞いて安心した。大学を卒業してからもクラシック音楽の情報交換をしようよ」
「そうかい。君は秋子さんとの恋愛でそれどころじゃなくなると思うけど」
「いやいや、君が大好きなシベリウスの話を聞きたいと思っているんだ」
井上が思っていたとおり、それから4年して、小川と秋子は結婚した。結婚式に小川の友人代表として呼ばれた井上はスピーチすることになった。
(続く)