プチ小説「チャイコフスキー好きの方に(仮題)」
福江はクラリネットを習い始めて7年、ようやく運指も滑らかにできるようになり、アンブシャーも安定して安定した音が出せるようになった。ただスラーやタンギングを駆使してのアーティキュレーションは、ブラスバンド経験者のうまさには遠く及ばず、クラリネットの谷本先生からタンギングで吹いて下さいと言われると口元を強張らせて、立ち往生することがしばしばだった。またリズム感や音感がないので、アップテンポの曲を演奏することやソルフェージュの練習が苦手で、レッスンで、そういった曲を吹いたり、先生から、私が鳴らした音と同じ音を吹いて下さいと言われると困惑の表情を浮かべるのだった。
福江はクラリネットのレッスンを受けるようになって、毎年発表会に出ていたが、4年目の時は2つの苦難が重なった。2曲を発表会ですることになったが、アメリカの作曲家アンダーソンのシンコペーテッド・クロックとモーツァルトのアイネクライネナハトムジークの第2楽章だった。シンコペーテッド・クロックはシンコペーションの箇所がいくつかあり、リズム感がないとうまく演奏できないため、福江は練習でいつも苦悶の表情を浮かべていた。またアイネクライネナハトムジークでは、フォースのパートで低音のサポートのところを担当したので、リズム感のない福江は全然合わせられなかった。この時の苦い経験から、1月の発表会まで3ヶ月間は発表会で演奏する曲の練習ばかりをするのだから、自分のやりたい曲を提案してもいいのではないかと思うようになった。
福江は、発表会で演奏する曲の楽譜を彼方此方の楽器店で探した。高槻市に住む福江は、まずキタのササヤ書店に行ったがいいものが見つからず、ミナミのヤマハでも見つからなかった。福江は東京に出掛けた折に、銀座のヤマハと山野楽器に足を運んだが、ようやく山野楽器でチャイコフスキーのアンダンテ・カンタービレ(弦楽四重奏曲第1番第2楽章)楽譜を見つけた。レッスンを始めた時から是非演奏してみたいという曲の楽譜を手に入れたので、福江はその場で跳び上がって小躍りしたい心境だった。
レッスン7年目に入ると福江以外の生徒の仕事が忙しくなり、5人いた生徒の一人が退会した。これで4つのパートをそれぞれ一人で吹かなければならなくなったが、じっくり楽譜を見て、福江は通して演奏することは可能と考えていた。10月から練習するために発表会で演奏する曲を決める、9月最後のレッスンの日に福江は思い切って、アンダンテ・カンタービレを発表会で演奏したいと提案した。他の生徒は谷本先生からの話に耳を集中させた。
「福江さんから、レッスンの前に、アンダンテ・カンタービレを発表会で演奏したいというお話をいただき、楽譜を見させていただきました。いくつか難しい箇所はありますが、まったく手も足も出ないということはありません。むしろ少しレベルの高い曲を発表会のために練習するというのは意義のあることです。中条さん、どう思われます」
「以前、発表会で、「くるみ割り人形」から花のワルツを演奏したことがあり、チャイコフスキーの曲をまたやりたいと考えていました。アンダンテ・カンタービレはやさしいきれいな曲なので、やりがいがあると思います」
「それではこの曲をすることでよろしいですか。わかりました。4人で4つのパートをするのは大変ですから、別のクラスから2~4人の人に協力してもらえるようにします」
「先生、ファーストは誰がするのですか」
「もちろん、アンダンテ・カンタービレをしたいと言われた。あなたがされるといいと思います」
「わあ、うれしいです」
「もし、進捗具合を見て、もうひとり必要なら、別のクラスの方に頼みますから、福江さんは安心して練習してください」
(続く)