プチ小説「ブルックナー好きの方に(仮題)」

井上が友人の下宿がある福王子の方に歩いていると、小川が声を掛けた。ふたりはしばらく卒業後の話をしていたが、小川が卒業するまでに大学の近くの名刹等持院に行っておきたいと誘ったので、井上は同意し二人は等持院まで戻った。二人は庭の縁側に腰掛け、好きなクラシック音楽の話を始めた。
「僕はみんなが勧めるので、ブルックナーのCDを借りていろいろ聴いたけれど、小川君が言うように、第7番と第9番位しか...」
「フルトヴェングラーの第7番とクレンペラーの第9番を聴いたらそれで充分という気になるよね」
「でもブルックナー・ファンは彼が作曲したすべての交響曲には価値があって、充実した内容だと言っている。第4番「ロマンティック」も嫌いじゃないけど、第1楽章が余りに充実しているので、そこで針を上げてしまう。第1番の第3楽章スケルツォも嫌いじゃないけど...」
「僕は、友人からクナッパーツブッシュの第5番がいいと言われたので、借りて聴いたが、やっぱりその素晴らしさがわからなかった。それで参考になる本はないかと百万遍近辺の古本屋で探して回ったところ、デルンベルク著の『ブルックナー その生涯と作品』という本を見つけた」
「面白かったかい」
「そうだなあー、ブルックナー・ファンの人なら、途中で読むのをやめるかもしれない」
「あんまり褒めていないのかな」
「ブルックナーは大聖堂のオルガニスト、音楽理論の教授と着実に音楽家の地位を固めて行ったが、視界が広がらず、交響曲の作曲にこだわった。しかも出来上がった交響曲の手直しをして、改訂版を出版したが担当したハースやノヴァークがきちんと仕事をしなかったので、混乱が生じていると書いている。第〇番のここがすばらしいと教えてくれると期待していたのに肩透かしを食らった感じなんだ」
「きっとブルックナーはオルガニストや研究者として培った作曲技法を自らの交響曲に反映させたはずなんだが、それが理解できないというのは歯がゆい気がする」
「楽典を勉強していない僕たちが、ブルックナーを理解するのは無理なのかな。まあ慌てなくても、人生は長いから、第5番がいいことくらいはわかるかもしれない。テーマを鼻歌で歌えるようになるかもしれない」
「第7番があまりによくできた交響曲なので、他の曲にも期待しすぎるのかな」
「ブルックナーの交響曲は第0番から第9番まで10曲の交響曲がある。僕は0、2、3、6はまだ一度も聴いたことがないけど、もう少し音楽理論を勉強してから、聴いた方がいいんんだろうか」
「例えば、ベートーヴェンやモーツァルトの交響曲すべてが聴く価値があると思うかい」
「うーん、ぼくはモーツァルトの第34番より前の交響曲は聴いたことがない。ベートーヴェンの交響曲第8番も聴いたことがない」
「だからブルックナーの場合も同じことが言えるんじゃないかな」
「いや、僕はそうじゃないと思う。もっとブルックナーの交響曲の名演を聴いて、いつか10曲ともすばらしい交響曲なんだよと言えるようになりたい」
「そうすると1時間近く、大音量で聴くことも厭わないんだね」
「編成が大きいから、それは覚悟の上さ。まあ将来的にはそういう環境も作れるようにするさ」
二人は温かな秋のお昼時に等持院の庭で少し居眠りをしていたが、どちらからともなく、もう出ようかと言い出して、そこを後にした。

(続く)