プチ小説「ヴェルディ好きの方に(仮題)」

岩本は槍・穂高縦走のため、今年も北アルプスにやって来た。JR松本駅で下車して、松本電鉄に乗り、新島々まで行った。そこからバスに乗り上高地入りしたが、朝食を取って上高地を出発するときには午前10時半を回っていた。ここから槍沢ロッジまでひたすら歩くわけだが、岩本の場合、ひとりなのでいつもアイポッドを聴きながら、目的地に向かった。岩本が聴くのはいつもクラシックで、特にヴェルディの歌劇のファンで「リゴレット」「トロヴァトーレ」「椿姫(ラ・トラヴィアータ)」の3つの作品を続けて聴くとおおよそ6時間になり、それだけの時間があると上高地から槍沢ロッジまで充分に歩けるのだった。次の日の槍沢ロッジを出てから南岳小屋までの行程は9時間近くかかるので、岩本は、今日はベートーヴェンの交響曲を全曲聴こうかと思いながら、朝食を食べていた。テーブルの向かい側を見ると岩本と同じくらいの年齢の男性が味噌汁をすすっていた。岩本が、今日はどちらまで行かれますかと尋ねると男性が答えた。
「今日は、槍ヶ岳まで行こうと思っています」
「北アルプスは初めてですか」
「ええ、初めてです。伊吹山や御在所岳にはのぼったことはありますが」
「何か、トレーニングのようなことはされましたか」
「いいえ、毎日仕事で忙しいもので。でも今年で50才の大台に乗ったことですし、一度憧れていた槍ヶ岳に挑戦してみようと思ったんです」
「そうですか、私は5回ここに来たことがあるのですが、いつもいろんな経験をさせてくれるので」
「楽しいのですか」
「いいえ、大変なんです」
「どんなところが大変ですか」
「まずある程度体力がなければもたないということです」
「足ですか」
「そうですね。いきなり登山と言われるなら、恐らく帰りは足ががくがくでしょう」
「高所とかはありませんか」
「槍ヶ岳山荘まで行って、槍の穂先を見て下山するだけなら、高所はありません。槍ヶ岳山頂まで行くなら、高所は覚悟しなければなりません。さらにそこから穂高の方に足を延ばすなら、高所だらけです」
「私は初心者なので、無理はしないつもりです。他に気を付けることはありますか」
「雨ですね。雨具は持ってこられましたか」
「ええ、ガイドブックに雨具は必携と書いてありましたから」
「リュックの雨具もありますか」
「いいえ」
「山の雨は酷い降りになりますし、リュックの防水も十分じゃあないので、リュックにも雨具は絶対必要です」
「それから雨の日はもうひとつやっかいなことがあります」
「何でしょうか」
「雨が降る時は、気圧が下がっているので、3千メートル級の山にいるとしばしば高山病になります。ひどい頭痛を覚悟しないといけません」
「いろいろ教えていただいて、ありがとうございます。ところであなたはどちらまで行かれますか」
「天気が良ければ、槍ヶ岳山頂に登ってから、穂高の入り口南岳小屋まで行こうと思います。そうだ思い出した。槍ヶ岳の8合目か9合目あたりまで行くと空気が薄くなり酸欠のようになります。私もよく酸欠になりますが、そういう時は一休みしてからゆっくりと目的地を目指すといいですよ」
「ありがとうございます」

岩本は北アルプスの初心者と話した日には予定通り南岳小屋まで行くことが出来たが、その夜から大雨となり、翌朝も悪天候が続いていた。岩本は休暇が4日しか取れないため来た道を戻ることにした。槍沢の分岐点まで来ると前日の朝に話をした男性が何度も膝をさすりながら、急な坂を下りていた。岩本が、こんにちはと声を掛けるとその男性は声を掛けられたのがよほどうれしかったのか、にっこり笑って、こんにちはと返した。
「おや、あなたは昨日の朝の...穂高には行かれなかったのですか」
「そうです。雨の時には無理はしないんです。あなたもアイポッドを聴いておられますね。どんな曲ですか」
「私はヴェルディ・ファンなんで、アバドやカラヤンの演奏を聴いています」
岩本は普段は表情を変えないが、笑顔になって、そりゃー、いい趣味をお持ちですねと話掛けた。