プチ小説「バッハ好きの方に(仮題)」
山田の同級生に幅一郎という名前の生徒がいて、彼がバッハのことをよく知っているという噂だった。山田は帰り道に見掛けたので、幅に声を掛けた。
「君はバッハのことをよく知っているらしいけど、どのくらい知っているの」
「あんさん、そんなことゆうても、どないゆうたらええんやろ」
「安心して、僕も父親のレコードをよく聞いていて、バッハのことは少しは知っているから」
「ほたら、ヴァイオリンの曲やったら、何が好きなん」
「そうだなー、パルティータ第2番かな、終楽章のシャコンヌが大好きなんだ。それから2台のヴァイオリンのための協奏曲かな。この曲は第2楽章がすばらしい」
「よう知っとるやん。ほたらチェロやったら、何がええ」
「これはすっと出て来る。無伴奏チェロ組曲第1番だね。出だしが素晴しい」
「そうなんや。それやったら、管弦楽曲や協奏曲はどうなん」
「管弦楽曲は管弦楽組曲の第1番かな。協奏曲はブランデンブルク協奏曲だな。第1番から第6番まで全部好きだな」
「君は、マタイ受難曲やカンタータなんかも聴くのん」
「マタイはリヒターの1958年盤もいいけど、2016年に録音されたラ・プティット・バンドの小編成盤もいいと思う。君はどのCDが好きなのかな」
「それでええんとちゃう。僕もリヒターのマタイ好きやねん」
「そうでっか。いやいや、そうなの。じゃあ、今度は僕から聴くけど、演奏家や指揮者は誰が好き」
「ヴァイオリニストのシェリング、チェロのカザルス、オルガニストのヴァルヒャかな。指揮者ならリヒターかな」
「大切にしているレコードとかあるの」
「まだ高校生だから、お父ちゃんのコレクションを聴いているだけや」
「きっと何百枚もレコードやCDを持っているんだろう」
「そうなんかな、ようわからん。でも父親の場合、バッハだけやから、そんなにレコードは持っていない。緻密に仕上げられた音楽がいいと言っとった」
「というと他の作曲家は聴かないの」
「興味がないみたいや。それとええ音かな」
「音?」
「特にヴァイオリンのキーッという音が好きみたいで、シェリングのソナタ、パルティータをいつも聴いてるわ」
「バッハは究極の音楽なのかな」
「いや、源流やね。モーツァルトもベートーヴェンもブラームスも、後世の音楽家はみな彼が作曲した音楽をお手本にして作曲したと思うんよ。だからバッハ好きの音楽の素養がある人は他の作曲家の音楽は洗練されていないと感じるんとちゃうんかな」
「君はどう思うの。僕がもし君の家でレコードが聴けるなら、僕は他の作曲家の音楽も聴きたいけれど、君の父親がそれを許してくれるかはわからないのかな...いっぺんやってみようや。おもろいと思うで」
「そうやな、やってみたろかな」
「今度の休みに君んちに僕のレコードを持って行くよ」
「そら、ええんとちゃう」
(続く)