プチ小説「ショパン好きの方に(仮題)」

立花は20年来のベートーヴェン・ファンでピアノ音楽と言えば、ベートーヴェンのピアノ・ソナタかピアノ協奏曲しか聴かなかった。彼は日頃から言っていた。ピアノ・ソナタ第4番やピアノ協奏曲第4番のように煌めく音楽もあるし、ピアノ・ソナタ第26番「告別」やピアノ協奏曲第3番のように苦悩を突き抜けて歓喜に至る音楽もある。これらの音楽を違った解釈(ピアニスト)で聴いていれば、飽くことはない。ケンプ、ブレンデル、グルダ、バックハウスがピアノ・ソナタもピアノ協奏曲も全曲録音しているから、それらを毎日聴いていればいいのだと。
立花はその日は久しぶりに柳月堂に来たが、リクエスト・ノートにケンプのベートーヴェン ピアノ協奏曲第4番と書き込んだ。立花が柳月堂のソファに腰掛けた時には、マスターの他には男性客ひとりしかいなかったが、恐らくその人がリクエストした、ケンプのモーツァルトのピアノ協奏曲第27番がかかっていた。立花は思った。
ケンプがライトナー指揮で録音したモーツァルトのピアノ協奏曲は、8、23、24、27しかない。20、21、22、25、26も入れてほしかったな。僕の好きな第18番があれば最高なんだけど。20年前までは他の作曲家の作品もよく聴いたけど、今はベートーヴェンしか聴かない...僕のリクエスト曲が始まったんで、ソファに深く沈んで聴くことにしよう。
立花一時入眠してしまったが、心地よく最後まで聴いた。自分がリクエストした曲を聴き終えて、注文したホットコーヒーにミルクと砂糖を入れた。カップに口を寄せようとすると、ショパンのピアノ曲が鳴り始めた。立花は思った。
ショパンの練習曲を聴くのは久しぶりだな。ポリーニがいいと言うから練習曲集のレコードを聴いたけれど堅苦しい感じだった...そして前奏曲集も同じだった。ポリーニで良かったのは、ベートーヴェンのピアノ協奏曲第4番くらいかな。こればベームのサポートが良かったからだと思う。それにしても、このレコードは誰の演奏なのかな、少しノイズが入るけれど、演奏はダイナミックで申し分ない。リクエスト・ノートを見てみるか。ふーん、コルトーなんだな。持ち込みって書いてある。そう言えば、コルトーは、他にも、前奏曲集、バラード全曲のレコードもある。20年前はよく聴いたなぁ。ショパンとベートーヴェンはピアノ音楽の最高峰と言える。ここ20年間、ショパンを聴かなかったのはもったいないことをしたかな。
立花はノートと鉛筆を取り出して、思いついたレコードを記載することにした。
最初にショパンの音楽に興味を持ったのは、映画「愛情物語」で主人公のピアニストがノクターン第2番(作品9の2)を弾くのを聴いたからだった。「別れの曲」や「雨だれ」もいいなあと思っていたところ、コルトーの前奏曲集を聴いて、複雑な気持ちになった。演奏は素晴らしいが、日本盤はノイズが多くて楽しめなかった。そこでノイズのない、フランソワのレコードを聴いていた。フランソワはノクターンとピアノ協奏曲第1番、第2番だけは名盤だったが、練習曲集、バラード、スケルツォは楽しめなかった。SPレコードでリパッティのワルツを聴く機会があり、その演奏が気に入りすぐにLPレコードを購入したが、ワルツの演奏では今でもリパッティが一番だと思っている。その頃から、中古レコード店通いが始まって、コルトーの演奏もオリジナルに近いLPレコードなら、ノイズがほとんどないことを知って、前奏曲集他とバラード全曲のコルトーのレコードを購入したのだった。いずれもすばらしいレコードだったが、ガザルス、ティボーと共演したベートーヴェンのピアノ三重奏曲「大公」やメンデルスゾーンのピアノ三重奏曲第1番の方ばかり聴いて、前奏曲集やバラード全曲は余り聴かなかったなぁ。ショパンの演奏で度肝を抜かれたのは、ポリーニの英雄ポロネーズだったが、このレコードは何度聴いてもこの曲だけが素晴しく、他の曲はいまいちだった。ポロネーズ集はリズムが取りにくく、超絶技巧の曲ばかりというから、まだ全曲の名演はないのかもしれない。マズルカはカペルとフランソワを持っているが、一部しか楽しめないので、全曲の名盤が出ないかなと期待している。そうだ思い出した。その頃、コルトーに興味を持ってショパンの他のレコードを調べたのだった。有名なのは、ピアノ・ソナタ第2番「葬送」と第3番があるけど、ワルツ、ピアノ協奏曲第2番なんかもあるみたいだ。それから英雄ポロネーズのSP盤を見たことがあるけど、高額なんだろうな。英雄ポロネーズの後半のところは電車をイメージさせるところがある。そう言えば、ヴィラ=ロボスのブラジル風バッハ第2番の終楽章トッカータも電車をイメージさせる。こちらも久しぶりに聴いてみるかな。
長い独り言を終えて、立花は柳月堂を後にした。


(続く)