プチ小説「こんにちは、ディケンズ先生32」
小川と秋子は久しぶりに河原町阪急前で待ち合わせて、百万遍に出ることにした。秋子が、二人が初めて出会った場所に
久しぶりに行ってみたいと言ったからだった。百万遍の交差点からそれほど遠くないその古本屋はその日も開いていたので、
ふたりは中に入った。
「私たちの大学からは遠いところだけれど、専門書が安くで買えるからよく通ったものだったわ。ある日2階から1階に
下りようとする時に何冊か持っていた本のうちの1冊を落としたところ、小川さんが拾ってくれたんだったわね。私に
渡そうとした際に小川さん「この本なら家にあるから、差し上げてもいいよ」と言ってくれた。高価な本だったので、
二つ返事をしたんだったけれど。同じ大学ということがわかったから、翌日大学構内の喫茶店で会う約束をしてその日は
別れた...」
「ははは、よく覚えているね。でも一旦上げると言った本を、どうしてもお金を払うと言って定価を払ってくれたのには、
申し訳なかったと思っているよ」
「だって、おかあさんが知らない人からただでものをもらうのは良くないと言ったから...。あれからもう4年も経つのね」
「それからは土曜日の講義が終わって午後2時に河原町阪急前で待ち合わせて、特にあてもなく四条河原町近辺をを歩き
回ったね。そうして疲れたら、名曲喫茶やジャズ喫茶に入って流れて来る音楽に耳を傾けていた。あの頃、秋子さんは
楽器をしているなんて言わなかったから、知ったかぶりしてレオポルド・ウラッハやベニー・グッドマンのことを
話していたけれど、技術的なことは秋子さんの方がよく知っていた。それなのに楽しそうに僕の話を聞いてくれた...」
「そんな楽しい日々も卒業まで。その後は西と東の泣き別れということになったけれど、ほんとに長い間、小川さんから
連絡がなかったから、一時どうなることかと心配していたのよ。そして就職して2年目のクリスマスに手紙を出したん
だったわ。すぐに京都に会いに来てくれたけれど、東京人としてすっかり洗練されたのかと思ったら、ただ栄養失調で
痩せてしまっていたんだったわ。物価の高い東京での一人暮らしは日々の暮らしをするのがやっとで、里帰りなんて
なかなかできないということに気付いたの。それで小川さんがいつも行っている喫茶店に突然訪ねて行くことにしたの。
結構、インパクトあったでしょ」
「空いた口がしばらく塞がらなかったよ。それでもうれしかったよ。自分のことをこんなに思ってくれる女性がいてると
わかったんだから」
「私も小川さんが本当に喜ぶ顔を見て、なんだか安心したのよ。だって...、私は小川さんのことをかけがえのない存在と」
小川が周りに誰もいないことを確かめて秋子を抱きしめたが、すぐに本棚の洋書が落ちて大きな音がした。
1階から店員の声がした。
「お客さん、どうかしましたか」
小川は答えた。
「すみません。ディケンズ先生の原書を床に落としてしまいました。ええと、「Dombey and Son」(ドンビー父子)と
書かれてあるなあ。これ買いますから」
しばらくして二人はその店を後にした。