プチ小説「ロッシーニ好きの方に(仮題)」
大川は川上に頼まれて、大学の事務局前の告知板の張り紙を見に行った。川上は3月に卒業予定であるが、それに必要な単位が取得できたかの掲示されているので、それを見て来てほしいと頼まれたのだった。大川は、昨年5月に川上と知り合ってから、市内で開催される市民向けのクラシック音楽のコンサートに行ったり、秋には日本の歌劇団が主催するロッシーニの「セビリャの理髪師」を見に行ったのだった。大川は高校生の頃に、アバド指揮の「セビリャの理髪師」のレコードを聴いて、それまで文系志望だったのを音大志望に変更したのだった。大学時代に是非このオペラ公演を見たいと大川は思っていたので、願いがかなったわけだった。この歌劇の中の有名なアルマヴィーヴァ伯爵の「空はほほえみ」、ロジーナの「今の歌声は」という2つのアリアも好きだったが、フィガロの「わたしは町のなんでも屋」、音楽教師バジリオの「かげぐちはそよ風のように」、医師バルトロの「わたしのような医師に向かって」のようなユーモラスな歌唱も魅惑的だった。大川はいつか自分で歌劇を作曲したいと考えたが、それは、ヴェルディの「アイーダ」「ドン・カルロ」「オテロ」のようなグランド・オペラではなく、プッチーニの「ボエーム」「蝶々夫人」「トスカ」のような聴衆を泣かせるオペラでもなく、ロッシーニの「セビリャの理髪師」のようなユーモアにあふれたオペラだった。
下宿に戻ると隣の部屋の川上がいたので、大川は報告した。
「川上さん、卒業おめでとうございます」
「やあ、ということはノー・プロブレムということだね」
「そうですね。今日は繰り出しますか。お付き合いしますよ」
「いや、今日は下宿でゆっくりと...よかったら、大川君も一緒にどうだい」
「是非お願いします」
「でも先輩からはいろいろ教えていただきました。最初知り合った時はマーラーの交響曲しか知らないと言われていたのに、オペラのことをよく知っておられて...」
「いやいや、趣味の領域を出ないさ」
「でもぼくはワーグナーの楽劇やモーツァルトの「魔笛」やベートーヴェンの「フィデリオ」やリヒャルト・シュトラウスの「ばらの騎士」などのドイツ・オペラにしか興味がなくなっていたのに、イタリア・オペラにもう一度興味を持たせてくださった」
「オーバーだな、大川君は。でも僕が一番君に伝えたかったのは、ドイツ・オペラは真面目なものが多くて一生通して聴き続けるのはしんどいから、ヴァラエティに富んだイタリア・オペラを聴いてみたら、新しい世界が広がるよということだったんだ」
「ヴェルディ、プッチーニはぼちぼちというところですね。ベッリーニやドニゼッティはこれからというところ。他のイタリア・オペラもロッシーニの「セビリャの理髪師」ほどの衝撃はありませんね。「セビリャの理髪師」を聴いたから、他のイタリア・オペラにもほんの少し興味を持った感じです」
「それはあるかもしれないね。現代音楽に余り興味がない人が、シェーンベルクの「浄められた夜」を聴いた感じかな」
「そんな感じかもしれません。バロック音楽に興味がない人がヴィヴァルディの「調和の霊感」を聴いた感じかな」
「そうかもしれない。とにかく学生の頃に興味を持って、それを心にとどめていつまでも大切にするということはよくあることだよ」
「そうですね。ぼくにとって、川上さんとの交流と「セビリャの理髪師」はそれにあたりますので、一生大切にします」
「照れるから、これからは「セビリャの理髪師」だけにしといてよ」
(続く)