プチ小説「ラフマニノフ好きの方に(仮題)」

南田は、小学生の頃から星を見るのが好きだった。いつか天体望遠鏡を購入してガイド撮影をしてみたいと思っていたが、就職して10年経過した現在も仕事に追われて、天体望遠鏡を買えないままである。それでも天体ショーはできるだけ、観測していた。彗星が現れたら双眼鏡で観測したり、流星群が見られると言われたら夜遅くまで星空を眺めていたり、皆既月食だと言われたら月食の間ずっと月を見ていたりした。そんな南田だったが、天文に興味を持ち始めた高校生の頃から視力が悪くなったのと乱視があるのとで、何度かの満天の星空を見る機会を逸して来た。就職して10年経過して、やっとシャープな画像が見られる眼鏡を購入した南田は、満天の星空を経験したいと思った。
<今度の新月は、10月17日か。前の日が土曜日だから、夜の午後10時くらいにどこか空が暗いところに行ってみたいなぁ。正直、僕は天の川銀河を意識して見たことがないんだから>
南田は思いついたことを実行する質で、10月16日の仕事が終わってからすぐに夕飯を食べて、国鉄に飛び乗った。南田の職場が高槻市にあったので、暗い空を見るためには、東海道線を草津まで上って草津線に入り、終点の柘植駅まで行くか、天王寺を経由して王寺駅まで行き、和歌山線の寂れた駅で降りるのが良いと考えた。何度も乗り換えることを避けたいと考えた南田は、柘植駅まで行くことにした。
午後10時に柘植駅に到着してしばらく街灯がない暗い場所、天の川銀河が見える場所を探したが、どこまでいっても街灯が一定の間隔で立っていて、星空をじっくり眺められるような暗い場所は探し出せなかった。仕方なく、近くの公園のベンチに腰かけて、携帯ラジオのスイッチを入れた。
<せっかくいい天気なのに残念だな。もうすぐ、NHKFMの「夜の停車駅」が始まる。それを聴いて元気を取り戻そう。テーマ曲のラフマニノフのヴォカリーズと江守徹さんのナレーションが素晴しい番組なんだ。ヴォカリーズはストコフスキー指揮のオーケストラをバックにアンナ・モッフォが独唱している。ああ、始まった。でも、このテーマを聴いていると郷愁を誘うというか。電車に乗って故郷に帰るとか、電車に乗ってどこかに行きたくなる。ラフマニノフは故郷ロシアを離れて、アメリカに渡り、ロシアに帰ることはなかった。ラフマニノフが作曲した曲には、ピアノ協奏曲第2番と第3番、交響曲第2番と心に残る名曲もあるけれど、それ以外はラフマニノフの大きな手を利用した超絶技巧の曲が多いと聞く。きっとアメリカに渡ったラフマニノフはコンサートのための超絶技巧の曲を作曲するのに忙しくて、ピアノ協奏曲第2番と第3番、交響曲第2番のような心に残る名曲を作曲する余裕が持てなかったのかもしれない。ヴォカリーズはラフマニノフが1915年に作曲した曲だが、この頃ラフマニノフは42才で、1917年にはデンマークを経由してアメリカに渡っている。アメリカに渡ったラフマニノフはコンサートに明け暮れ、ゆっくり腰を落ち着けて作曲する時間がなかったのだろう>
南田が時計を見ると、午後10時45分だった。
<もうすぐ終電が出る。ここで野宿をして風邪を引きたくないなあ。家まで帰られるかどうかは別として、できるだけ家の近くまで国鉄で帰ることにしよう。それにしてもどうしたら肉眼で天の川銀河を見ることができるんだろう。天体観測用の施設なら、無粋な街灯も最小限必要なものだけになっているだろう。それとも奈良の曽爾高原でも行ってみるか。あそこならあまり街灯はなさそうだし>
柘植駅に着いた南田は切符を購入して、改札をくぐりぬけ、ホームへと向かった。


(続く)