プチ小説「希望のささやき3」

峰本が上高地を訪れたのは3年ぶりのことだった。前の時には河童橋が架け替えられる前で観光客が少なく
登山靴を履いて闊歩する人が多く見られたが、今日はどちらかというと観光客に押され気味という感じだった。
峰本は登山靴を履いて来たがどちらかというと観光客に近かった。今回の目的は登山靴を履いて槍、涸沢方面に
行き、午後4時頃のバスに乗って帰途につく(そうすれば日帰りができた)ということだった。もちろん、
普通の人の足で涸沢までは9時間くらいかかるので、途中で引き返すことになるが(午前6時30分から歩き始め、
午前11時の時点でどこまで行っていようと)、プランがそれだけだったので地図も持たずに歩き続けた。横尾を
過ぎてどこまでいっても橋(横尾大橋)に行き当たらないので変だと思ったが、登山道がどこまでも続くので
そのまま歩き続けた。午前10時30分頃から山道になりそろそろ午前11時になるので引き返そうと思っていた
ところ、山小屋が見えて来た。峰本は山小屋の前のベンチに座っている60才くらいの男性に尋ねてみた。
「ここは、涸沢のどこかですか。涸沢ヒュッテではないですよね」
「あなた、道間違えたんじゃない?ここは槍沢ロッヂですよ。涸沢方面に行かれるのなら、横尾を過ぎてすぐに
 橋を渡らないと...」
「そうですか。すみません」
峰本は空腹感を覚えたので、おでん定食を頼んでテーブルに座るとさっきの男性が声を掛けて来た。
「本当に今日はいい天気だ。あそこに単眼鏡がおいてあるでしょう。あれを覗いてごらんなさい。槍(槍ヶ岳)の
山頂1歩手前の梯子を登る人の姿がよく見えるから、ここを6時過ぎに40人程の団体が出たんだが、その人たちが
丁度、槍の穂先に登っているところだから」
峰本はさっそくテーブルから30メートル程離れた、広場の中央に設置してある単眼鏡のところに行き、
接眼レンズのところに目をやった。峰本にとっては初めてのことだったが、ピント調整がされていたので覗くと
すぐに少し陽炎がかって梯子を登る人の姿が見えた。峰本はその印象的な画面を食い入るように見つめていたが、
横で人の声が聞こえた。
「あなたもどうやら登山の魅力に取り付かれたようですね。でも簡単に行けないところに行く為には、日頃からの
 トレーニングが大切ですよ。あなたの真新しい登山靴と新しい楽しみができたと喜ばれている様子を見ていると
 若かった頃の私を思い出しますよ。でも、登山は用心しないと突然生死の分かれ目にやらされたりするから
 気をつけて下さい」
「ありがとう」と言って、峰本はレンズから目を外してテーブルの方を見た。
30メートルほど離れたところに先程の男性が見えただけだった。
「......」
ところが、すぐに
「おでん定食ができました」
と反対側から声がかかったのでほっとして席へと戻って行った。