プチ小説「ドビュッシー好きの方に(仮題)」

浪人生の石橋は平日の昼間に放送があるNHKFMのクラシックの番組をしばしば聴いていたが、FM大阪で毎週火曜日の夜9時から放送される、クラシックの番組は欠かさず聴いていた。ブリテンの「青少年のための管弦楽入門」のテーマが30秒ほど流れたところで、音楽評論家の柴田南雄氏のその日に紹介するレコードの解説が始まるという番組で、今日もその時間になると石橋は自分の部屋に入って勉強机の椅子に腰かけ、ラジオのスイッチを入れた。柴田氏の説明によると、この日は、アルトゥーロ・ベネデッテイ=ミケランジェリのピアノでドビュッシーの前奏曲集を掛けるとのことだった。
<ドビュッシーは、モントゥーの「牧神の午後への前奏曲」くらいしか知らないなあ。そうだ、ベネデッテイ=ミケランジェリはドビュッシーの「映像第1集・第2集」「子供の領分」のレコードもあるけど、シューマンの「謝肉祭」、ベートーヴェンのピアノソナタ第4番、第32番、ショパンの小品集なんかも素晴らしかった。それでも全集というのはないなあ。ベートーヴェンのピアノ・ソナタ全集、ピアノ協奏曲全集、ショパンの前奏曲、練習曲、ワルツ、バラード、スケルツォ、ノクターン、ポロネーズ、マズルカなんかもまとめて録音していない。シューマンも「謝肉祭」以外は録音していないようだ。このドビュッシーの前奏曲集は前から、一度聴きたかったレコードなんだ。週刊FMを見ると、12の前奏曲について詳細が掲載されている。標題がそれぞれの曲に付いていて、「デルフィの舞姫たち」「帆」「野を渡る風」「音とかおりは夕暮れの大気に漂う」「アナカプリの丘」「雪の上の足跡」「西風の見たもの」「亜麻色の髪の乙女」「とだえたセレナード」「沈める寺」「パックの踊り」「ミンストレル」となっている。どの標題も文学的で興味がそそられるなあ。「亜麻色の髪の乙女」が有名だけれど、「デルフィの舞姫たち」「音とかおりは夕暮れの大気に漂う」「西風の見たもの」「とだえたセレナード」も早く聴いてみたい>
一曲ずつ柴田氏が解説を入れて番組は進行していったが、石橋はラジカセの音では物足りなくなって来た。
<僕は今までピアノ演奏に馴染みやすいメロディ、例えば、モーツアルトのピアノ協奏曲やショパンのワルツのようなものを求めて来たけど、このベネデッティ=ミケランジェリのドビュッシー前奏曲集を聴くと、ピアノの機能を目一杯生かした、いろいろな音が聴けるのがウリなので、これは性能がいいステレオでなくては再生できないなと思う。それからハープの音も大型スピーカーじゃなければ再生できないと思うし...でもいつになったら、自分で働いて稼いだお金で理想のオーディオ装置を購入できるんだろうか>
石橋は父親が購入したセパレートステレオでレコードやFM放送を聴くか、ラジカセでFM放送を聴くか、FM放送を録音したテープを聴くしかなかった。
<ハープと言えば、ヘンデルのハープ協奏曲が好きだな。モーツァルトのフルートとハープのための協奏曲も素晴らしい。ドビュッシーも「神聖な舞曲と世俗的な舞曲」というハープが活躍する名曲がある。大型スピーカーからハープの華やかな音がポロンポロンと流れ出ると素敵だろうなぁ>
石橋が空想に耽っていると、いつしか柴田氏の放送が終わっていた。
<秋の夜長にこうしてのんびり過ごすのもいいけど、こんなことを続けていてはいつまでたっても高級オーディオを買えそうもない。自分の趣味をもっと楽しむために勉強していい大学に入って、それから大企業に就職しなくては>
石橋はそう独り言を言った後で、2時間ほど英語の受験勉強をして寝床に入った。

(続く)