プチ小説「メンデルスゾーン好きの方に(仮題)」
大宮と千代子は、いつものように土曜日の午後に賀茂川べりを歩いていた。彼らが散策の際にいつも交わすのはクラシック音楽のとりとめのない話だった。
「僕はロマン派の音楽家でひときわ光彩を放つのはメンデルスゾーンだと思うな。彼は、ヴァイオリン協奏曲だけでも、十分に後世に名を残せるのに、交響曲、管弦楽曲、室内楽曲、ピアノ曲にも名曲を残している」
「ガイドブックによらなくても、交響曲は交響曲第3番「スコットランド」、同第4番「イタリア」は素晴らしい曲ねえ。「スコットランド」は私が一番好きな曲で、しっとりとしていて、私は海岸線に立ち並ぶ苔むした巨石が雨に濡れて鮮やかな緑色に輝いているところが目に浮かぶわ」
「管弦楽曲は何がいい」
「もちろん、「真夏の夜の夢」の結婚行進曲よ。クレンペラーのレコードを聴くと組曲の中のどの曲も魅力的だけれど、特に序曲が優れているって、ガイドブックに書いてあったわ。そうそう「スコットランド」と一緒に1枚のアルバムに入れられる「フィンガルの洞窟」もしっとりとした名曲よね」
「室内楽曲にもいいのがあるねえ」
「ええ、弦楽八重奏曲は、「真夏の夜の夢」を作曲された頃と同じ頃のメンデルスゾーンが16才の頃の作品で、若さが漲る作品よ。私がもっと好きな作品は、ピアノ三重奏曲第1番。コルトー、ティボー、カザルスの演奏で聴くとこの作品の真価がわかるわ。甘く切ないこの曲は青春の歌とも言えるんじゃないかしら」
「青春の歌か。でもガイドブックには1939年メンデルスゾーンが30才の頃の作品で、ピアノのパートは難しいと書かれてあるから、長年かけて練り上げた名曲と言えるんじゃないかな。それからピアノ曲は名曲ぞろいだね」
「ベートーヴェンにピアノ・ソナタ、ショパンに前奏曲、練習曲、ワルツ、バラード、スケルツォ、ノクターン、マズルカなどがあるように、メンデルスゾーンには、無言歌集があるわ」
「君はどの曲が好き」
「私は、この曲の素晴らしさを世界中の人に知らしめたのは、ギーゼキングだと思うの。だからそのアルバムにある「甘い思い出」「ヴェネツィアの舟歌」「望み」「デュエット」「浮き雲」「胸さわぎ」「心の悲しみ」「5月のそよ風」「ヴェネツィアの舟歌」「春の歌」「巡礼の歌」「紡ぎ歌」「エレジー」「旅人の歌」「乗馬」「こどものための小品」は是非一度聴いてみたいわ。そうだ今から、柳月堂へ行かない」
「今日は給料前だからやめておこう」
「大宮さんが賛成してくれないから、未だにステレオを買っていないけれどそろそろどうかしら」
「いまや携帯音楽プレーヤー、アイポッド、ワイアレス小型スピーカーの時代なんだから、ブルートゥースとか2分配ケーブルと手ごろな価格のヘットフォンをふたつ買おうと言うのなら、検討してみるけど、ステレオは...とてもウサギ小屋のわが家には置けないよ」
「でもいつかあなたとふたりでステレオの前で肩を並べて、メンデルスゾーンの「真夏の夜の夢」序曲を聴きたいわ」
「わかった。頑張るよ」
(続く)