プチ小説「シェーンベルク好きの方に(仮題)」
清田は、シェーンベルクの「浄められた夜」を聴いてすぐに寝ると、夢の中に少女が現れるということが続いていた。しかしながら、新卒で入社したばかりの清田にとって睡眠は単に疲れを取るための人間の営みなので、自然に任せ、こちらから少女に働きかけることは思いもしなかった。そうして数回夢の中で少女の後姿を見ていたが、ハロウィンの夜に清田がストコフスキー指揮の「浄められた夜」を聴いて寝ると、最初向こうを向いていた少女がこちらをじっと見てから話しかけて来た。清田がよく見ると、白い服を着た、長い黒髪で黒い目の少女だった。
「シェーンベルクはお好き?」
「「浄められた夜」はよく聴くんだけど...な、なんでそんなことを訊くの」
「いいから、答えて。他の曲はどうなの」
「他の曲はわからないんだ。「浄められた夜」はシェーンベルクがまだ後期ロマン派の作曲技法で作曲していた頃の作品だから、理解できる。「ペレアスとメリザンド」も後期ロマン派の技法と言われているから、鑑賞可能だろうけれど...でも無調音楽から十二音技法へと作曲技法が変わると理解はできないだろう。歌曲集「月に憑かれたピエロ」とか、新ウィーン学派の他の2人、ベルクやウェーベルンが作曲した音楽も」
「でも聴いてみなけりゃわからないじゃない」
「以前、少し聴いたことがあるんだ。感情のないとらえどころのない音楽だなと思った。例えば、ハ長調の曲は明るく溌溂とした音楽とか、ロ短調やニ短調の音楽は悲しみに満ちたミサ曲なんかに使われる調だと言われている。ところが無調音楽、十二音技法にはそれがない。いやさらに一歩進んで、調を固定することを否定している」
「でもバロック音楽、古典派の音楽、ロマン派の音楽と進化していく過程で、調を固定するのじゃなくて無調にしたり、12の鍵盤をフルに使えるような音楽にしたりしてより現代的な音楽に変えて行ったと言えるんじゃないの」
「いやいや、無調や十二音は無理があると思う。例えば、ウィーン学派以降の無調音楽や十二音技法の曲で口ずさめるメロディがあるかい。愛らしい君のようなメロディが」
「私のことは言わないで。ただ先生のために頑張っているんだから」
「そうか、シェーンベルク先生の生徒さんなんだね」
「まあ、そういうところよ」
「ユモレスクや白鳥のようなメロディはないと思う。というのはとても口ずさめるような音楽ではないからなんだ。12音すべてを使うことになると半音刻みとなるわけだから、ド、ドシャープ(レフラット)、レ、レシャープ(ミフラット)、ミ、ファ、ファシャープ(ソフラット)、ソ、ソシャープ(ラフラット)、ラ、ラシャープ(シフラット)、シの12音すべてをしっかりとした音程で表現しなければならない。無調音楽や12音技法の代表曲として、ベルクの歌劇「ヴォツェック」があるが、このきわめて難しい曲を正確な音程での歌唱が可能なのだろうかと思う。楽器ならチューニングさえきちんとしていれば問題ないけれど...」
「確かにそうだわ」
「だから、歌うのが難しい。口笛で演奏するなんてとてもできない」
「でもジャズだって、モダンジャズ、モードジャズ、フリージャズという具合に発展したんじゃなかった」
「そうそう最近は環境音楽(アンビエント・ミュージック)と言って、ブライアン・イーノが空港で流すための音楽を作っているが、限られた空間でのみ真価が発揮される音楽になっていると思うな」
「ねえ、そろそろ、起きたら。あなたも明日、お会いする時には、気分が良くなって、私の話を聞いてくれたり、面白い冗談を私に言ってくれると思うの」
「そうかなあ、変わらないと思うよ。まじめな人が嫌いなんだね。君は」
「そうじゃなくて、行き詰った私たちは仕切り直しが必要だと言うことよ」
「そうか、じゃあ、明日は「浄められた夜」を聴くのをやめとこうかな」
「いじわるね」
(続く)