プチ小説「いっぱいのミルクティー」
本山は、2回生の夏休み中バイトに勤しんでいた。夏休みに入ってすぐは、昨年と同じように比叡山ホテルの皿洗いをしたが、それも1982年8月いっぱいで終わり、大学が9月初旬まで休講だったので、別のバイト先を探す必要があった。
大学の学生課でよい働き口が見つからなかったので、本山は扇町の学生相談所でバイト先を見つけた。荷物の積み下ろし補助というアルバイトだった。
<われわれ貧乏学生は、こうしてまる一日休みが取れる時にはバイトをしておかないと駄目なんだ。いろんな人と話す機会ができるわけだし、家でひとりでいるよりずっといい。阪急茨木市駅から会社の送迎バスが出ていると求人票に書かれてあったから、それに乗ったけれど、会社まで40分もかかってしまった>
本山がバスを降りて、事務所に入ると担当の事務員が現場へと連れて行ってくれた。現場に行く途中で、同じバイトをすると思われる同じくらいの年齢の男子学生が話掛けて来た。
「このバイトは初めてですか」
「はい、力仕事は初めてです」
「力に自信はあるの」
「人並みにはあるつもりです」
「この前は何をしていたの」
「夏休みに入ってから一昨日までは、ホテルで皿洗いのアルバイトをしていました」
「そうか、それじゃあ、ちょっと手を見せて、うーん、これは大変かもしれないぞ」
「どうかしましたか」
「こんなに手のひらがふやけていたら、ちょっとこすれると表面の皮が剥がれてしまう」
「剥がれても再生するでしょう」
「そりゃあ、しばらくしたら再生はするだろうさ。でも剥がれた時の痛みと再生するまでの接触による痛みはめちゃくちゃ痛いよ。地獄の苦しみというか...」
「へえー、そうなのか」
「そりゃー、今のうちは他人事ですんでいるけど。しばらく重いものを運んでいるとふやけている表皮が剥がれる。剥がれたところは触っただけで跳び上がるほど痛い。そら現場に着いた。覚悟して取り掛かることだ」
会社の担当の人から説明があり、コンテナの奥にある荷物をコンテナの入口のところにあるパレットの上に乗せてほしい。あとは工場の中にリフトで運び込むからということだった。
最初のうちはひと箱10キロくらいの荷物をコンテナの奥から運び出すので、荷物の重さとコンテナ内の暑さばかりが気になったが、しばらくして軍手の中の掌が痛くなって来た。本山は午後から4時間の荷物運びが割の良い仕事と思っていたが、決してそうではないことがわかった。4時間荷下ろしをしたあとは、軍手を脱ぐこともできず、激痛で目頭がうるんでいた。
本山が一緒に仕事をしたアルバイトの人と手の痛みのことを話していると、会社の人がその話を聞いて、驚いたように話し出した。
「それじゃあ、君がまだ軍手をしたままなのは、痛みがひどくて脱ごうとするとさらに痛くなるからなのか」
「そうなんです。彼は少し力仕事を甘く見ていたようです」
「まあ、そうかもしれないが、このままいつまでも手袋をしたままでは、帰ることもできないだろう...そうだ、ちょっと、待っていて」
本山と一緒に仕事をした学生が本山の悲愴な顔を見ながら、何か名案があるのかしらと呟いた。しばらくすると会社の人が缶入りミルクティーを手に持って戻って来た。
「これ最近発売されたミルクティーなんだけど、飲んでみて」
本山は会社の人からホットの缶入りミルクティーを受け取るとすぐにもう一人の学生に開けてもらって飲んだが、身体がほかほかと温まり、甘いミルクティーが口の中に広がり、今までに飲んだことがない美味に思えた。
「さあ、今なら、脱げるから、手袋を脱いでみて」
本山が意を決して、手袋を引き抜くと手袋は思った以上に容易く脱がせることが出来た。
「さあ、それじゃあ、今日の日当をもらって帰ってね。それから君は今日あったことを反省して、二度と同じことをしないように。というか君は力仕事に向いていないようだから、安易に力仕事のバイトをやろうと思わないように」
「そ、そうですよね」
本山はそう申し訳なさそうに言って、残りのミルクティーを旨そうに飲んだ。