私のペンネームが船場弘章なわけ

11月28日の日本経済新聞の43面に、船場太郎氏の訃報の記事が載っていました。船場氏は私のペンネームの一部に使わせていただいていることもあり、2011年9月に拙著『こんにちは、ディケンズ先生』が出版されてからは特に、どうされているのか気になっていました。
思えば、私が初めて船場太郎氏を知ったのは、もちろん吉本新喜劇でしたが、私が小学校高学年の頃で、船場氏が30才を少し過ぎた頃でした。岡八郎さん、山田スミ子さんとの共演で、ハンサムなのになぜか山田スミ子に愛されず、岡八郎との恋愛競争に敗れて涙にくれるという、とても気の毒な役柄でしたが、私は彼が演じる役に共鳴し親近感を持ったのでした。私が中学生になると趣味の幅が広がり、映画を観に行ったり、フォークソングを一所懸命覚えたり、本(主に少年サンデーと少年マガジンでしたが、小説も少し読みました)を読むことに忙しくなり、家族と一緒に吉本新喜劇を見ることはほとんどなくなりました(漫才や落語はよく見たり聞いたりしていましたが)。
訃報の文章を読んでいると吉本新喜劇の座長も務められたようですが、私が高校生になって以降の芸能人としての船場氏の記憶は、ラジオのDJやレポーターでした。そうして私が就職して大分経過して、1991年に大阪市会議員になられ、2003年には1年余り大阪市会議長もされました。ここでは船場氏の政治家としての業績について詳しくは触れませんが、新喜劇で座長もされた方が、地方政治でも大きな貢献をされたという評価をしてもいいと思います。
そんな船場氏に私は憧れ、尊敬の念を抱いて、船場氏に断りもなく、この「船場」という大名跡をいただいたのですが、今のところ、『こんにちは、ディケンズ先生』はほとんど売れていませんし、ディケンズ・フェロウシップでミニ講演(2013年秋季総会「ディケンズとともに」)をしたくらいです。
拙著は2011年9月に近代文藝社から第1巻が、2015年10月には同社から第2巻が出版され、多くの大学図書館、公立図書館の受け入れがありましたが、ほとんど売れませんでした。心機一転、幻冬舎ルネッサンス新社から、第1巻と第2巻の改訂版がそれぞれ2018年と2019年に出版され、さらに今年2020年の3月には第3巻と第4巻も同社から出版され、これから、拙著をできるだけ多くの方々に読んでいただこうと思っていたのですが、思わぬコロナの蔓延です。
私の場合、自費出版なので、評価してもらえるのは、大学図書館と公立図書館の受け入れなのですが、コロナで大学図書館の受け入れ(もちろん学生さんのことでそれどころではないでしょう)が止まっている(京都大学の図書館だけ受け入れてもらっています。私が卒業した立命館大学もまだです)ので、積極的に公立図書館に受け入れをお願いできないでいます。「全国の大学図書館50以上に受け入れてもらっています」と言って、公立図書館で受け入れをお願いすれば、担当の方も拙著に興味を持っていただけるでしょうが、それができないでいます。
そんなわけで、3月4日に出版されたら、自著を受け入れてもらうために全国を回る予定でしたが、地元高槻市と大阪市以外の公立図書館には受け入れをお願いしていません。出版社から50の大学図書館に代行発送をしてもらいましたが、今のところ、京都大学の図書館と私以外の方が蔵書を希望された阪南大学と松山大学の図書館だけの入庫となっているからです。
昨日、船場太郎さんは亡くなられたようですが、私が勝手に「弟子」になったことを立腹されているかもしれません。それでももし天国で私の活動を知られて、今のような状況を打破していただけるのなら、今後は船場太郎の名前に恥じないような、残りの人生を送りますので、どうぞお力をくださいと祈る次第です。
船場太郎様 いままでお仕事ご苦労様でした。これからは私のことを見守っていてください。お願いします。