プチ小説「バルビローリに捧ぐ(仮題)」

イギリスの指揮者ジョン・バルビローリの評価があまりに低いことをいつも嘆いていた福居は、久しぶりに名曲喫茶ヴィオロンを訪れ、自分のリクエストした曲を聴きながら、他にお客さんがいないことをいいことに独り言を言っていた。
「ほんとにいいんだよなぁ、バルビローリの指揮は。イギリス人として地味なイギリス音楽を普及させようと、ディーリアス、エルガー、ヴォーン・ウィリアムズを積極的に取り上げている。ディーリアスの「アパラチア」他の管弦楽曲、デュ=プレと共演したチェロ協奏曲なんかはすばらしい演奏なんだが、地味な音楽なんで知られる機会がない。モーツァルトやベートーヴェンの有名な曲のレコードを聴くように、たくさんの人に聴いてもらえないんだ。それがとても残念でしょうがない。バルビローリは間口を広げて、国民学派の作曲家、チャイコフスキー、ドヴォルザーク、シベリウスの交響曲のなんかも積極的に録音している。でも彼は専らイギリスのオーケストラであるハレ管弦楽団を指揮しているが、有名でないオーケストラなので、聴かれていない。せめてロンドン交響楽団とかだったら、興味を持ってもらえたのかもしれない。このブラームスの交響曲第2番が入っている、ブラームスの交響曲全集だけは世界一のオーケストラと言われるウィーン・フィルと共演している。ぼくがクラシック音楽を聴き始めた頃は、バルビローリという地味な指揮者がイギリスのあまり有名でないハレ管弦楽団を演奏するレコードは評価されていなくて、唯一雑誌で紹介されていた、ブラームスの交響曲第2番を聴いたのが初めだった。いぶし銀という言葉がよく似合う指揮者は彼を置いて他にないだろう。そういう風に考えると、ウィーン・フィル、ベルリン・フィルなんかの世界一、二のオーケストラの指揮をするより、地道にハレ管弦楽団で彼らしい落ち着いた音楽を作るのがよかったのかもしれない。とにかくバルビローリは感情の高揚や華美になるのを抑えて、じんと心に残る落ち着いた演奏をする指揮者だなと思った。それが快適さ心地よさに繋がって、睡魔が襲ってくる。それもいいんだが...」

ふと気付くと、そこはヴィオロンの店内ではなく昔、中野にあった名曲喫茶の店内のようだった(福居はそこに一度しか行ったことがなく、うろ覚えだった)。店内では、福居がその店でリクエストしたティボーとコルトーが演奏するフランクのヴァイオリン・ソナタが流れていた。
「ところで君、君はバルビローリが好きなんだね」
隣の席で本を読んでいた年配の紳士が唐突に声を掛けて来たので、福居はびっくりしてそちらを向いた。福居はヴィオロンでレコード・コンサートを今までに何度か開催したことがあるが、そこに何度か来られた紳士であることに気付いた。
「ええ、でも熱心なというわけではありません」
「なぜそうなのかな」
「ぼくは、レコードコンサートを主催するものとして、幅広くクラシック音楽を聴きたいからです。オーケストラが演奏するのも好きですし、ピアノ独奏も好きです。ヴァイオリン・ソナタ、チェロ・ソナタも好きですし、小編成の室内楽曲も好きです。歌曲も聴きますし、アトリウム・ムジケー古楽合奏団なんかにも興味を持っています」
「そうか君にとっては、バルビローリというのは些少な存在なんだね」
「うーん、そう言われると辛いのですが、あなたも好きなアーティストはいるでしょう。カラヤンとかベームとか」
「いや、わしの場合は、イギリスに特化してると言える。イギリスの作曲家の音楽、イギリス人の作家の作品から触発されて作曲された音楽、例えばシェイクスピアの作品とか」
「ベートーヴェンのピアノ・ソナタ第17番「テンペスト」、メンデルスゾーンの「真夏の夜の夢」、ヴェルディの「オテロ」「マクベス」「ファルスタッフ」などですね」
「そうだ。他にも、「ロメオとジュリエット」はチャイコフスキーを初めたくさんの作曲家がインスパイアされておる。他にメンデルゾーンの交響曲第3番「スコットランド」、序曲「フィンガルの洞窟」なんかも好きだな」
「でもその音楽ばかりを聴いているわけではないでしょう」
「そのことは君がよく知っているんじゃないのか。君のレコード・コンサートに何回か行ったことがあるから、わかるだろう」
「確かあなたはペーター・マーク(この時には、メンデルスゾーンのスコットランド交響曲、「真夏の夜の夢」の劇付随音楽なんかを掛けました)、それからジノ・フランチェスカッティのときにご来場いただいたと思います」
「デュ=プレ、ジュリーニ、ストコフスキー、メータの特集の時に少しヴィオロンを覗いたんだが、その時は結構混んでいたんで、店内には入らなかったんだ」
「そうだったんですか。で、話を戻しますが、バルビローリのことをもっと話してもらえませんか」
「君もバルビローリがカラヤンやベームのようにベートーヴェン、モーツァルト、ブラームス、その他ロマン派のオーケストラ曲を中心に幅広く管弦楽曲を、またワーグナー、モーツァルト、ヴェルディ、プッチーニなどのドイツとイタリアのオペラのレコードを残しているとは思っていないだろう」
「そうですね。イギリスで活躍した指揮者としては、オットー・クレンペラーがいて、フィルハーモニア管弦楽団を率いてカラヤンに対応意識を燃やしていたようですが」
「クレンペラーのベートーヴェンやブラームスの交響曲、モーツァルトのオペラのレコードは素晴らしくて私も愛聴しているが、カラヤン、ベームほど幅広くレコードを残していない。バルビローリはイギリス人の作曲家の音楽をたくさん録音したから尚のことだろう」
「A先生は多分、ぼくにもっとバルビローリを紹介してほしいとおっしゃるんでしょう」
「そうなんだ、これほどすばらしい指揮者を、イギリスの指揮者を知らないのが口惜しくて、またヴィオロンのレコード・コンサートで取り上げてくれないか」
「わかりました。でも今のところ、コロナが蔓延しているので、LPレコード・コンサートは開催できません」
「それはよく分かっている。今、君がこの小説を書いているように、バルビローリやイギリスのクラシック音楽のアーティストを取り上げてくれれば、引いてはイギリスの芸術に興味を持ってもらえる。私の専門のシェイクスピアやディケンズも。そうすれば君の本も...」
「そうですよね、急がば回れですよね」
「そうさ、今までさんざん待っただろう。それが4、5年延びたからって気にしないことだ」

福居が目を覚ますと、誰かがリクエストしたクレンペラーのスコットランド交響曲が流れていた。福居が外を見ると雨だったが、福居は、まあいつかは止むだろう。楽しいことはあとに取っておこうと言って、支払いを済ませて外に出た。