プチ小説「巷間に第九が流れる時節になったというのに」
福居はクラシック音楽を聴きながら、何かをすることが40年来の習慣となっていた。浪人時代や学生時代は専ら語学の予習で、英語だけでなく、ドイツ語やスペイン語も楽しんで身に着けた。それらの学習がやがてはオペラやその国の文化を理解するのに役立つと考えたからだった。そう思うと日曜日の数時間をそのために費やしても苦になるどころかうきうきした気分になった。社会人となってからは専ら読書のBGMとして流していた。福居はポップス、ジャズ、ロック、イージーリスニング、民俗音楽などいろんな分野の音楽を聴いたが、やはりクラシックのように音楽を聴き流しながら集中して別のことをするのは他のジャンルの音楽ではできなかった。そんなことを考える時はいつも、高校時代にフォークソングを歌いながら勉強して成績が最低だったことを思い出した。
<俺も(彼が物思いに耽る時はいつも自分のことを俺と言っている)もっと早くからクラシック音楽でながら勉強をしていれば、現役で国立大学に入って両親に迷惑を掛けずに済んだかもしれない>
福居はクラシックを聴きながら物思いに耽るのも習慣となっていて、今日はたまたまNHKラジオの音楽の泉で、第九の第4楽章がかかったので、第九がそのテーマとなった。
<レナード・バーンスタイン指揮ウィーン・フィルか...バーンスタインは全く聞かないから新鮮だな。ウィーン・フィルはいつものように音色がすばらしい。第九と言えばまず思い浮かぶのは、フルトヴェングラーがバイロイト祝祭管弦楽団を指揮した1951年のEMIのレコードなんだが、俺が最初に聴いた第九は、シャルル・ミュンシュ指揮ボストン交響楽団の第九だった。最速の第九なんて呼ばれていたけれど、ハイフェッツと共演したベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲のようにごつごつした熱い演奏だった。それ以上の演奏で10分以上長い究極の名演があるということを知ったのは、フルトヴェングラーという指揮者を知ってすぐだった。俺がフルトヴェングラーのレコードで最初に聴いたのは、ウィーン・フィルを指揮した1952年の英雄(EMI録音)なんだが、それ一枚でフルトヴェングラーの虜となった俺はガイドブックを購入して他の名盤を探したのだった。音楽の泉が終わったから、久しぶりにフルトヴェングラーの第九を聴いてみるか>
彼は、フルトヴェングラーの第九のフランス盤のレコードとCDを持っているが、10年前にオルトフォンのカートリッジを買えなくなってからはレコードを聴く環境が劣化して、CDで我慢することが多くなった。2万円そこそこのレコード針でアナログレコードを楽しむという考えは甘い、甘いと言いながら、彼はCDを掛けた。
<マランツのCDプレーヤーはそれなりの音がするけど、スピーカーが25年前に購入したオンキョーの大型スピーカー(Monitor2001)で一度ウーハーがやぶけたので張り替えてもらったものだ。あの時にタンノイのスピーカーでも買ったら、よかったかな。ジャズ・ファンの人はJBLのスピーカーを選ぶけど、クラシック・ファンはやっぱりタンノイだなー。今はオルトフォンのカートリッジさえ買えないようになってしまったが、30代の頃は、スピーカーはタンノイのウエストミンスター、アンプはマッキントッシュの真空管アンプ、プレーヤーは今でも使っているヤマハのGT-2000なんて、夢を描いたものだったが、タンノイのウエストミンスターは価格が1台300万円以上もして、重さが1台100キロ以上もあると聞いて、住宅事情から考えると大型スピーカーで音楽を聴くのは無理かなと考えたのだった>
インターネットでタンノイのウエストミンスターの画像を見ながら、当時のことを思い出しているとなぜだか目頭が熱くなり、こみ上げてくるものがあった。
<俺も30~50代の頃は大きな夢がいろいろあった。高級オーディオでアナログレコードを聴いて、何か世の中に役立つことをしてみたいと考えて、ヒューマニズムにあふれたイギリスの文豪を多くの人に知ってもらおうと小説を出版したが、成果は上がっていない。むしろジリ貧状態で、かつてのようにオルトフォンのカートリッジでクラシックの名盤を聴くこともできなくなった。この第九だって、アナログレコードで聴けたら...>
福居がレコード棚を見ると、アーベントロート指揮の第九があった。
<盤質良くないこのレコードは、ほとんど聴かなかったな。CDもプレーヤーとの相性が悪いと音飛びがあるけどレコードのノイズや針飛び程ではないか...。この前、ハイティンクのCDを購入したけどまだ来ていない。ワルター、カラヤン、サヴァリッシュ、マゼールの第九も通販なら簡単に購入できる。最良の音とは決して言えないけれど、それなりの音で楽しめるのなら、「今」はそれがいいのかもしれない。できる範囲で音楽を楽しみながら少しでも多くの小説を書けばそれでいいんじゃないか...負け惜しみじゃない。でも、来年の年末はコロナが治まって、名曲喫茶ライオンでフルトヴェングラーの第九を聴きたいものだな>