プチ小説「もしも願いかかなうなら、ピアノが自由自在に弾けるようになりたい」

クラシック音楽ファンの吉野はそれが高じて、50才になるとクラリネットのレッスンに通うようになった。数年習うとある程度の演奏が可能になり、友人もできた。彼はレッスンを受けるために京都に行っていたが、その友人と京都で会おうということになり、四条河原町の丸井前で待ち合わせた。吉野が待ち合わせの場所に行くとその友人は既に来ていた。
「やあ、北条さん、お待たせして、すみません」
「いえいえ、まだ約束の時間になっていません。ぼくが10分前に来たんですよ」
二人が会うのは久しぶりだったが、コロナが蔓延しているので、賀茂川べりを少し歩いて、柳月堂に寄って帰るという約束をしていた。ふたりは四条大橋のところで鴨川べりにおりて歩き出した。
「でも、今年はコロナでさっぱりでしたね。クラリネットのレッスンに吉野さんも来られなくなって」
「医療機関に勤めているのですから、三密は避けないといけません」
「発表会も中止になりましたし、来年のレッスンがどうなるのかと...」
「そうですよね。とにかくクラリネットの場合、息を楽器に吹き込まなくては音が出ないわけですから、3畳ほどの空間で数人の人が集まってレッスンを受けると言うのは三密そのもので、特効薬やワクチンが普及して、許可が出るまでレッスンは欠席となるでしょう」
「解除されるのはいつ頃になると思われますか」
「さあ、来年がオリンピックの予定なので、多くの人が集まっての行事ができるよう各国、特に日本が努めるでしょう。その結果、良い方向に向かえば、案外早いうちにいろんなことができるようになるかもしれません。ただ...」
「ただ、何ですか」
「来年、今より状況が悪くなるようであれば、長期戦を覚悟しなければなりません。いろいろな制約がある中で、自分がやりたいことをするということになるでしょう」
「クラリネットのレッスンはまだまだできないと...」
「そうです、それで最近実現不可能なことまで、夢に出て来るようになりました」
「???」
「北条さんにも前話したでしょう。僕がピアノが大好きであるのに、習わない理由を」
「ええ、確か、吉野さんは、ピアノ、ギターなどの和音を奏でる楽器は和音を理解していないので、演奏できないと言われていましたね」
「そうです、それでできるとしたら、クラリネットのように一つの音を奏でる楽器と考え、クラリネットの練習に力を入れてきました。でもコロナで吹奏楽全般がレッスンを受けられないということになると2、3年先には他のことを考えざるを得なくなるかもしれません」
「ということは、ピアノとかを習うということですか」
「そうです、今からピアノを習うんです。昔から憧れていたピアノを」
「何かきっかけがあるのですか」
「以前から、ピアノ音楽が好きだった。ベートーヴェンもショパンも。でもそれだけでは自分でやってみたいと思わなかったのです。自分で楽譜と対峙して難しい曲をこなすということに魅力は感じなかったんです」
「ではなぜ」
「オペラの練習の時、伴奏は何がやりますか」
「オーケストラがすることはないでしょう。ピアノ伴奏でしょうね」
「それから例えばブラームスの交響曲のピアノ連弾用の楽譜があるのをご存じですか」
「確か、マティースとケーンが4手でブラームスの交響曲やピアノ協奏曲やドイツ・レクイエムを演奏したCDがありますね」
「そうです、それからこれはレコードしか見たことがないのですが、マーカムとネトルが2台のピアノでホルストの惑星を演奏しています。デュオの管弦楽曲演奏としてはゴールドストーンとクレモウが演奏したリムスキー=コルサコフの「シェエラザード」があります。このデュオはドヴォルザークの新世界交響曲やメンデルスゾーンのスコットランド交響曲も演奏しているようなので、一度聴いてみたいところです。さらに...」
「まだピアノ編曲盤があるのですか」
「交響曲のピアノ独奏編曲としては、カツァリスのベートーヴェンの交響曲全集があり、グールドのベートーヴェンの運命のピアノ編曲のレコードがあります」
「ええ、そのいくつかを私も買いました」
「私がさらに驚いたのは、フィンランドのピアニストヘンリ・シーグフリードソンがシベリウスの交響曲第2番と第5番を一台のピアノで演奏していることです」
「へーえ、想像できないなあ」
「そう、僕もそうでしたが...でも聴いてみるとすごく自然で、しかもピアノの機能をフルに使っているという感じで、とにかく魅了されました」
「それでピアノを弾いてみたくなったということですか」
「クラリネットでスタジオを借りた時にスタインウェイのピアノが置かれてあって、ワンフィンガーで演奏をしたりしたのですが、自分の下手な演奏でもいい音で鳴ってくれる。左手で少しでもコードが弾けて、メロディを奏でたら、新しい世界が広がるのではと考えたのです。ジークフリードソンの演奏を聴くまではそこまで考えなかったのですが...」
「クラリネットはどうするのですか」
「もちろん大好きな楽器なので、これからも練習はしますが、時間がある時にピアノのことをもっと調べて、何とかなりそうだったら、おためしレッスンでも受けてみようかと思います。今からやるのですから、「エリーゼのために」なんかが弾けたら、十分だと思っていますが、簡単には行かないでしょう。そうしてそれでピアノの響きを体感出来たらいいと思うんです」
「でも来年か再来年にはコロナが去って、今まで通りにクラリネットのレッスンが受けられるようになるかもしれませんよ」
「もちろんそうなることを期待していて、そのときには究極の選択をしなければなりません」