プチ小説「ミュンシュに捧ぐ(仮題)」

福居は、日曜日の朝、寝不足のため目頭をぐりぐりしながら、大型スピーカーから流れる音楽に耳を傾けていた。
<ピアノ2台での管弦楽演奏にはまってしまったなぁ。そもそもはギター2台で演奏する、リムスキー=コルサコフの「シェエラザード」(山下和仁、山下尚子)を聴いたのが始まりだったか。いや、オルガンによるホルストの「惑星」(アルブレヒト)が初めだったか。とにかく次はピアノ編曲を聴いてみようということになった。それで2台のピアノで演奏する「シェエラザード」のCDを購入したのだが、ゴールドストーンとクレモウの演奏は血が通った熱い演奏だ。今まで一度も聴いたことがなかったリムスキー=コルサコフの交響曲第2番「アンタール」も聴きごたえがあった。それでこのドヴォルザークの交響曲第9番「新世界から」とメンデルスゾーンの交響曲第3番「スコットランド」が1枚に入っているCDを購入したんだが、どちらもすばらしい演奏だ。これから聴くグリークのピアノ協奏曲他の2台のピアノでの演奏のCDも楽しみだな。これだけ切れのいいピアノ演奏だから、眠たくなるのはおかしいのだが...ああやはり昨日夜更かししたのがいけなかったかな。でもそれに抵抗するのもなんだし、ここは大人しく睡魔のお導きに任せよう...>

ふと気付くと、以前夢で出会った紳士がテーブルの前に腰掛けて、コーヒーを飲んでいるのに気付いた。
「さあ、リクエストの曲が途切れたようだ。君もチョークで黒板にリクエスト曲を書いたらどうかな」
「ここは、どこですか」
「中野の名曲喫茶クラシックだよ。さあさ、リクエストを書いて...でも今は1990年だから、君が最近、興味を持っている、ゴールドストーンとクレモウのCDはないし、数年前に君が購入したマティースとケーンの4手で演奏したブラームスの交響曲もないから」
「いえいえ、せっかく名曲喫茶に来たのだから、オーケストラの演奏を聴きたいですね。そうだブラームスの話が出ましたから、ブラームスの交響曲がいいかな」
「ほう、何番がお気に入りなのかな」
「もちろん全部です。好きなレコードは限られますが」
「じゃあ、第1番は誰の指揮がいい」
「もちろん、ミュンシュ指揮です。それでやはりオーケストラはパリ管弦楽団ですね。
「第2番はどうかな」
その年配の紳士は楽しそうに目じりに深いしわを寄せて尋ねた。
「カラヤンがベルリン・フィルを指揮した1963年盤かバルビローリがウィーン・フィルを指揮したものですね」
「バルビローリのそれはわしも大好きじゃよ。第3番と第4番は」
「第3番はセル指揮クリーヴランド管弦楽団、第4番はワルター指揮コロンビア管弦楽団ですね」
「じゃあ、わしも聴きたいから、ミュンシュ指揮パリ管弦楽団のブラームス交響曲第1番をリクエストしてくれ」
「ふふ、ぼくもそれを頼もうと思っていました。でもこうして名曲喫茶でのんびり時間を過ごすことができなくなってしまったのは悲しいです」
「そうだな、それが君の息抜きだったからね。鬱憤のガスがたまって爆発するかもしれない。ピアノ編曲なんかを聴くことで我慢しているが、いつまでもそういうわけには行かないだろう」
「そうです。名曲喫茶ヴィオロンでA先生と出会ったように、東京に行けばすばらしい出会いがありました。それができないのは悲しいことです」
「時節到来を待てばいいんじゃないかな。わしは人の幸運は日頃の行いによると思うから、君にチャンスがないということは君の日頃の行いが良くなかったということで理由がつくと思う」
「そうかもしれません。でもぼくは初志貫徹したいので、これからも日々精進します」
「そうだな、そうしていれば運命の神様も情にほだされるかもしれないな」

福居が目を覚ますと、棚にある2ヶ月前に購入した、ミュンシュ指揮パリ管弦楽団が演奏するブラームス交響曲第1番のハイレゾCDが目に入った。
<エラートのロゴがジャケットに入っているので、聴くのが先送りになっていたが、今から聴いてみるか>
そう言うと福居は、4つ目(東芝EMIレコード、東芝EMICD、フランス盤レコード、ワーナー盤CD)になるそのディスクを掛けた。