プチ小説「一見すると骨董品にしか見えなくても」
R大3回生の木村は、中央線沿線の名曲喫茶でクラシック音楽を聴くのを週末の楽しみにしていた。その日も自分でリクエストしたカール・ベームの未完成交響曲を聴き終えるとしばらくは他の人がリクエストをした曲を聴いていた。
<いつも思うことだけど、ここは日本盤のレコードしか聴いたことがない。他の名曲喫茶なら、いわゆるプレミアム盤と呼ばれる音がいいレコードも掛るけれど>
しばらくすると、マウリツィオ・ポリーニのベートーヴェンのピアノ・ソナタ第29番「ハンマークラヴィーア」が流れて来た。
<うーん、ポリーニかぁ。「ハンマークラヴィーア」なら、ルドルフ・ゼルキンの名盤があるんだけれど。ベートーヴェンのピアノ・ソナタなら、ヴィルヘルム・ケンプの全集があるけれど...むしろフリードリッヒ・グルダやアルフレート・ブレンデルの方が明快で聴きやすいかもしれない。個人的にはこの曲より最晩年の3つのピアノソナタ、第30番、第31番、第32番の方が好きだな。こちらはケンプの演奏もすばらしいし、第32番のグルダの演奏は感動的だ...おや、今入店した客が年配の女性店員と話をしているぞ>
客は40代のいかにもクラシック音楽好きといった風体の男性で、中古レコードがたくさん入った紙袋を持っていた。男性は自制した声で言った。
「すみませんが、このピエール・フルニエがヴィルヘルム・バックハウスと共演したブラームスのチェロ・ソナタを掛けてもらえませんか」
そう言ってその男性が紙袋から取り出したのは、1950年代に発売されたと思われるDECCAの中古レコードだった。それを見た女性は、顔をしかめて言った。
「あなたは前にも古いレコードを持参されて掛けてくれと言われたけれど、こういう古いレコードを掛けると針が傷むのよ」
「でもこのレコードは自宅で何度も聴いているので、こびりついた埃で針が傷む心配はありません」
「それにジャケットにコーヒーのシミが付いてるじゃない」
「それも音に関係はないと思います」
「他のレコードなら掛けてもいいけれど、これは...」
「それじゃあ、これはどうです。ヤーノシュ・シュタルケルのコダーイのチェロ・ソナタですが、これはピリオドのオリジナル盤ですよ」
「このレコードも古そうね...」
「じゃあ、これはどうです。ピーター・リバールがヴァイオリン独奏のヴィオッティのヴァイオリン協奏曲第22番は。ナルディーニのヴァイオリン協奏曲もいいですよ。もちろんウェストミンスターのオリジナル盤です」
「これも古いじゃない」
「こちらは有名な人だからどうかな。ジネット・ヌヴ―のシベリウスのヴァイオリン協奏曲です」
「私はシベリウスのコンチェルトはハイフェッツしか聴きたくないの」
「そんなー、でも無理やり聴かせるつもりはありません。こちらはどうです。ヨハンナ・マルツィのバッハの無伴奏ヴァイオリンのためのパルティータ第1番ですが...」
「私はバッハの無伴奏はヘンリク・シェリングしか聴かないのよ。日本盤のきれいなレコードがあるから、それを掛けましょう」
「ちょっと待ってください。わたしが大阪からわざわざこうして貴店を訪れたのは自分の愛聴盤がすばらしいオーディオ機器でどのような音で再生されるか聴くためなんです。あなたの愛聴盤を聴いても仕方がないでしょう」
「そんなに言うんだったら、他のを出しなさい」
「じゃあ、これはどうです。ミッシャ・エルマンがDECCAに録音したエルマン・リサイタルというレコードのオリジナル盤です。エルマン・トーンが満喫できますよ」
「これもジャケットの角が擦り切れている。他にどんなのがあるの、見せて...ああ、このゲオルグ・ショルティのベルリオーズの幻想交響曲なら1970年代録音の比較的新しいレコードだから、掛けてあげてもいいわ」
「そうですか、それならお断りします。それは渋谷の名曲喫茶ライオンで掛けてもらおうと思っていましたから」
その中年男性がコーヒーを飲んで店を出ると木村も店を出た。建物を出たところで木村がその男性に声を掛けると、最初その男性は驚いていたがやがて穏やかな表情に変わった。
「お店にいたお客さんですね。ご迷惑をお掛けしましたね」
「いえいえ、あなたが仰ることはいちいちごもっともで、店員があなたのレコードを掛けないのを気の毒に思いました」
「そう思っていただけただけで十分です。でもあそこでブラームスのチェロ・ソナタを聴きたかったな...」
「興味本位で申し訳ないですが、他にどんなレコードを持っていますか。ウラニアのエロイカなんかお持ちですか」
「私のレコードはプレミアム盤と言っても、2万円以上するのは10枚もないでしょう。1万円位のが多いです。全国のいくつかの中古レコード店で購入した音の良いレコードを東京のいくつかの名曲喫茶で掛けてもらうのが喜びなんです」
「わざわざ大阪から来たのに辛くはないですか」
「まあ、仕方ないでしょう。それぞれの店でルールがあるのですから。大概の店はお一人一曲となっていますが、わたしはコーヒーを2杯飲んで2曲目を掛けてもらえますかと頼んだりする。ある店では、「あなた、2曲目のリクエストは応えないといったでしょ」と叱られました」
「そんなことを言われることがあるのですか」
「だから、この店では1950年代以前のレコードに価値を見い出せないので、1970年以降の日本盤を掛けるというのがその店のきまりなら、それを受け入れるしかないでしょう。ぼくも最近は冷静になって来て、古いレコードを骨董品としか見ない人には、このレコードは人を魅了する妙なる音が閉じこめられているんです。どうか貴店のすばらしい再生装置でそれを再生してあげてくださいと言っても理解してもらえないこともあると思うようになりました」
「ぼくはそうではありませんよ。今から別の名曲喫茶に行くならご一緒しますよ」
「ご一緒してくださるんですね。じゃあ、次は阿佐ヶ谷の名曲喫茶ヴィオロンに行きましょう。その前にお昼にしましょう。私が奢るから」
「わあ、うれしいな」