プチ小説「こんにちは、N先生21」

以前、私はお金を節約するために自宅でカッターシャツにアイロンをあてていたのですが、1枚あてるのに1時間くらいかかるので、出版などで忙しくなった私は近くのクリーニング屋にクリーニングを依頼することにしたのでした。2ヶ月前までは家から自転車で5分のところにあるクリーニング屋で依頼していたのですが、そこがコロナ禍の影響で客が減少し、閉店することになったのでした。それで私は自転車で10分くらいかかり通勤経路にあるクリーニング屋に依頼することにしたのでした。週末にカッターシャツを出し、週明けの帰宅の時に仕上がったものを受け取るのです。
最寄りの駅で下車して、そのクリーニング屋に寄ると先客がいました。先客は千鳥格子の背広を受け取っていましたが、よく見るとそれはN先生でした。
「先生、お近くに引っ越して来られたのですか」
「いや、そうじゃないんだ。君がいつもここを利用するんで、もしかしたらしつこい汚れをきれいに落としてくれるかと思ったのだ」
「お近くのクリーニング店と余り変わらないと思いますが...でもなぜ先生が私の前に現れたかはよくわかります」
「そうか、それなら話が早いが、君の用を済ませてから外で話をしよう」
先生は外に出られて待っておられましたが、私は出したカッターシャツを受け取るだけだったので、1分もしないで店を出ました。
「呉茂一先生の『ギリシア神話』『ギリシア悲劇』を読み、映画「トロイのヘレン」と「トロイ」を見ただけで、ギリシアの歴史や文学について語るというのはとても危険な気がするのですが...」
「いいじゃないか、これは君と私のごくごく平凡な会話にすぎないのだから、気にしないで思う存分語るといい」
「そうですか。じゃあ、遠慮なく話すとします。私はギリシア史を語る上でもっとも重要な人物というのは、アガメムノンだと思うのです。アガメムノンの最も大きな業績というのは、トロイに遠征して勝ったことでしょう。私は最初、「トロイ」に出て来るアガメムノンを見て感じの悪い人だなと思っていたところ、最後のところで、アキレウスと同様にトロイ陥落のどさくさに紛れて命を落とします。なんでーと思っていたところ、呉先生の『ギリシア悲劇』を読むとそれはトロイ遠征の出発の際に風向きが一向に変わらず、帆船で遠征する何万もの軍隊を待たせるわけにいかないために自分の娘(イピゲネイア)を生贄にして風向きを変えたということがあり、妃(クリュタイムネストラ)の恨みを買ったということを知りました。大王は苦悩して、究極の選択を迫られたわけです。それに...」
「それに何だね」
「それにトロイに遠征する理由というのが、何というか」
「自分の弟の嫁ヘレンがトロイの王様の次男パリスに奪われ、それを取り戻すためだろ」
「映画で見たところ、美女ヘレンと美男パリスは相思相愛で、どちらかと言うと容貌が優れない気の荒い弟が振られたのは仕方ないのかなと思います。それなのに奪還のためと言って何万もの兵を集めてトロイに戦争を仕掛けるというのは...弟や部下の誰かの策謀であって、アガメムノンが決めたのではないんではと思ったりします」
「まあそのことは資料が散逸してわからないところもある」
「武将で目を引くのは、トロイの王様の長男ヘクトールと神様と人間の子と言われるアキレウスでしょう。「トロイ」を見るとヘクトールは愛妻家で家族を大切にするみんなから尊敬されている武将という感じです。一方、ブラッド・ピット演ずるアキレウスは、終始厭世的でアガメムノンに逆らったりしてますます立場を悪くしている感じがします。半分が神でみんなから尊敬されているはずの武将なのに。でも『ギリシア悲劇』を読むとその謎が解けました。風向きを変えるために生贄になったイピゲネイアがアキレウスと結ばれる予定だったということが分かり、アキレウスは王様のしたことを恨んでいるのだろうと」
「エウリピデスの『アウリスのイピゲネイア』がそれについて詳しく書かれている。他に『タウリケのイピゲネイア』というのもエウリピデスが書いていて、こちらではイピゲネイアは悲劇のヒロインとなっていない。ところでギリシア悲劇の作家として3人いるが、それぞれの重要作品を上げてみて」
「まずは、ギリシア悲劇の基礎を作ったと言われる。アイスキュロスです。彼の作品では『アガメムノン』『縛られたプロメテウス』がよいようです」
「確かにアイスキュロスはギリシア悲劇の確立者と言われるが、ソポクレスやエウリピデスほどの完成度はない」
「ソポクレスの作品では、『アンティゴネー』『オイディプス王』なんかが知られていますが、政治にも深いかかわりがあった人なので、いろんな意味でギリシア悲劇の発展に貢献した人物と言えます」
「で、エウリピデスはどうなんだい」
「エウリピデスは、悲劇自体の内容に重みを持たせて、文学的な価値を高めました。心理描写、性格描写などに優れていましたが、余りに克明に描いたので批判されることが多かったようです。作品としては、『メディア』『タウリケのイピゲネイア』『アリウスのイピゲネイア』『バッコスの信女』などがあります。この後もギリシア悲劇の名作は作られたかと思いますが、この三大悲劇詩人以降は傑出した作家は出ていないようです。アイスキュロスが登場した紀元前484年からソポクレスとエウリピデスが亡くなる紀元前406年頃までがギリシア悲劇の黄金時代であったようです」
「そうかそうか、それでこれから君はどうするんだい」
「いくつかの悲劇の台本を読んでみたい気がします。でも今から2400年も前の作品ですから理解できるんでしょうか」
「まあ、君も呉先生のファンになっただろうから、『アガメムノン』『縛られたプロメーテウス』『アンティゴネー』『タウリケのイピゲネイア』なんかが、岩波文庫から出版されているからまず読んでみてはどうだろう。それから人文書院の全集を読むといい」
「当時は仮面劇だったようですが、そんなことを考えずに普通の演劇を読む感じで読んでみます。でも理解できるかな」
「今でも読まれていて、舞台に掛けられているくらいだから大丈夫だよ」