プチ小説「春の陽気に誘われて」
注 これは、コロナ禍がなかった、昔(昭和60年頃)の話です。
2週間後に卒業式を控えた土曜日の昼過ぎに新見は、大学図書館で目的もなく時間を過ごしていた。もしかしたら彼女に会えるかもしれないというだけで、席に着き大学時代に親しんだディケンズのハード・カバーの本をめくっていた。
<とりあえず、『ピクウィック・クラブ』『リトル・ドリット』『荒涼館』を持ってきたけど、どれも懐かしいな。これだけ面白い本をこんな携帯に不便なハードカバーで読ませようというのはどうかと思うな。ディケンズは、中編小説の『クリスマス・キャロル』が有名で、『大いなる遺産』『二都物語』が次に来て、『デイヴィッド・コパフィールド』『オリヴァー・トゥイスト』で終わりという感じだけど、ディケンズは14の完成した長編小説があってこの3つの長編小説も面白いんだから、文庫本サイズで書店の本棚に陳列されるといいな。あれっ>
新見が顔を上げると机の向こう側で1、2回生の頃に同じクラスだった女性が微笑んでいた。その女性とは2週間前にも図書館の前の長椅子に腰掛けて話をしていた。
「やあ、君も図書館に別れを告げに来たのかい」
「それもあるけれど...ここじゃあ、話にくいから外に出ない」
「いいよ、でも、何の話なの。まさかクラシック音楽の話ではないよね」
「いいえ、そうよ、それ以外何があるの。あなたの話が面白かったから、続きを聞きたいと思っただけよ」
ふたりが図書館の前のベンチが空いていたのでそこに腰掛けると、冷たい風が吹き抜けた。
「うーん、とてもさぶいと思うんだけど、本当にここでいいのかい」
「お話はすぐに終わると思うから、とりあえずここでお話をしましょ」
「えーと、どこまで話したんだっけ」
「確かクラシック音楽は聴いてて元気になるものがあって、春をイメージしたのがいいとか...」
「そうだね、ヴィヴァルディの「四季」の春なんてその最たるものさ」
「それからモーツァルトの春をイメージした曲がいいとか話してくださったわ」
「そうだったね、まずは歌曲「春へのあこがれ」がいいかな、それから弦楽四重奏曲第14番は「春」という標題が付けられることがある。これも名曲だと思う」
「新見君がそういうから、「春へのあこがれ」の歌詞を調べたの。5月になったら小川の岸のスミレが見たいとか...」
「そうだったかな。あんまり歌詞の内容は知らないんだけど、モーツァルトはこのメロディが好きで、ピアノ協奏曲第27番の終楽章でも使っている」
「すぐに言われたレコードを聴けるほど、私、裕福じゃないの。でも図書館で歌詞を調べることはできるわ」
「そうか、そう言えばこうしてクラシックの名曲の話をしてもすぐにその曲のレコードを聴けるわけではないんだ」
「いいえ、それでいいのよ。私、卒業してからの楽しみにするから。モーツァルトの他の作曲家の曲で春に因んだのがあるかしら」
「そうだなー、シューベルトの「春の想い」というのがあるよ」
「どんな内容なの」
「春はいい季節なんだから、つらい思いはうっちゃっておいて明るく生きようとかだったかな」
同じクラスの女性はそれまでになかった笑顔を見せて、新見をじっと見つめた。
「そう、そうなんだ。それって私の今の想いにぴったりなんだけど...あなたはどう」
「どうって、どうかなぁ。君とおんなじかなぁ」
「じゃあ...」
そう言っても、新見はじっと中空を見てクラシック音楽のことしか考えていないようだった。
「他に何かいい曲あるかしら」
「あと有名なところでは、シューマンの交響曲第1番「春」があるね。春の息吹が溢れている曲なんだ。丁度桜の花が満開の頃の円山公園のような」
「へえ、一度聴いてみたいな」
「そうだ、京都にいくつか名曲喫茶があるから、コンビチュニーが指揮したシューマンの交響曲第1番「春」ならリクエストしたら掛けてもらえるかもしれないよ。機会があったら、リクエストしてみたら...」
「機会があったら...ねっ。ねえ、それより今日はいい天気だから...」
「そうだねえ、洗濯日和だね。帰って洗濯しようかな」
「......」
「それよりもっと大切なことがあるのを忘れていたよ。僕は天気がいい日に賀茂川べりを歩くのが好きなんだけど。ぽかぽかして気持ちがいいよ。君もどう」
「私も河原町の方に行く予定があったの。用事を済ませてからならいいわよ」
「じゃあ、賀茂川べりを歩いたら、柳月堂に行こうよ。あそこなら「春」のいいレコードがあるから」
「そうよ、そうこなくっちゃ。私、ベートーヴェンのヴァイオリン・ソナタ第5番「春」が聴きたいわ」