プチ小説「新京阪橋を挟んでの熱いたたかい 完結編」

前回のあらすじ
初老の会社員福居は、60才を過ぎてかつての体力はみじんもなかったが、帰り道に自分のすぐ横を早足で通り過ぎたイニエスタ似の男性の挑発的な態度に過敏に反応し、青春時代のように血を滾らせた。一度はささやかな勝利を収めて、勝利の〇クルトを味わったが、その後にすぐまた抜かれた。やるせない思いを胸に会社の前を歩いていると同僚の総務課のいちびり氏が貴重な情報と筋力トレーニングの骨を教えてくれた。福居は、すっかりその気になって、正月を返上して、筋力トレーニングに励むのだった。

年末の2日間と正月元日と2日を睡眠時間4時間で腿上げに明け暮れた福居は、5日目の今日も朝の4時に起きて、朝食を終えると和室の三面鏡の前に立って徐に足の上げ下げを始めた。
<今は、早朝だから腿上げだけにするけど、午前6時になったら、ニュースとかテレビを見ようかな。それから午前9時になったら、MacでCDを聴こうかな。そうして今日も午前0時まで筋トレに励むんだ。最近、外部スピーカやBluetoothを使って小型だけどJBLのスピーカーで聴けるようになって、音質が格段に向上した。腿上げは1時間続けて出来るようになれば後は何時間でもできるようになり、確実に体力が付いて行く。ただ何もしないでやっていると飽きが来てやめたくなってしまうから、何かをしながらしないとやってられない。クラシック、ジャズなんかを聴きながらするのもいいし、こういう風に長時間することに決めると腹を据えて長時間のオペラや映画のDVDなんかを見ることが出来る。前からもう一度見たかった。ズービン・メータがヴァレンシア音楽祭でワーグナーの「ニーベルングの指輪」全曲を指揮したDVD、それは全部で約17時間かかるのだが、元日に一気に鑑賞してしまった。そうだ今日は、前からやりたかったベートーヴェン交響曲全集を違う指揮者で通して聴くことにしよう。第2番はクレンペラー、第3番、第5番、第7番、第9番はフルトヴェングラー、第6番はワルターがいいけど、他はどうするかな。第4番はベームがよさそうだ。そうだ、ベームは第6番もいいな。第1番と第8番もベームで聴こうかな。そうしてまとめて聴いても8時間くらいにしかならない。あと10時間余り何を聴こうかな。マーラーとブルックナーの愛聴盤をまとめて聴くかな。マーラーは断然アバドなんだけど、第1番、第3番、第4番、第5番、第7番を聴こうかな。ブルックナーは第1番サヴァリッシュ、第4番ベーム、第5番クナッパーツブッシュ、第7番フルトヴェングラー、第8番ジュリーニ、第9番クレンペラーで聴きたいな。これらをまとめて聴いたら、20時間なんてあっという間だな>

福居の腿上げは、趣味のクラシック鑑賞に付属した、ながら筋トレだったが、年末年始の5日間で100時間こなしたので、筋力はそれなりについて、ウサイン・ボルトの最盛期には遥かに及ばなかったが、20代の青年のような臀部になっていた。
福居の仕事始めの日は1月4日であったが、定刻に仕事を終えて会社の前を歩いていると総務課のいちびりが福居に声を掛けた。
「あんた、後姿を見ていたけど、見違えたわ。あんたわしの言う通り、筋トレ漬けの年末年始を送ったんやな。立派やで。これをどう実践に生かすかということやけど...おおええとこにサッカー選手に似た人がやって来た。とりあえず、どこまで通用するかやってみるといい」
「そうですね。とりあえずどこまでついて行けるかやってみます」
すでにイニエスタ似の男性は福居の10メートル前を歩いていたが、身体が出来ていた福居はあっという間に抜き返して10メートル先を歩いた。それに続くスロープは抜きつ抜かれつの展開となったが、スロープを登りきるとイニエスタ赤坂氏は振り子運動をやめて、バタフライのように両腕を回転し出した。そうして福居の30メートル前に行ったところで振り向き、アカンベーをした。福居はそれを見て怒髪天を突いたが、遥か後方のいちびり氏を見るとスピードを緩めるよう指示があった。しばらくしていちびり氏が追いついた。
「どや、勝ち目はないやろ」
「そうですね。でも私はあなたが年末年始筋トレを一所懸命したら、あのサッカー選手に似た人に勝てると言われたから頑張ったんですよ...」
「確かにそうや...。ほやけどとても勝ち目がないことが判明したんやから、あとは奇策で行くしかないやろな。ちょっと耳貸してんか、ひそひそ」
「うん、面白いですね。明日、それをやりましょう」

翌日の夕方、福居といちびり氏が歩いていると、すぐ間際をイニエスタ赤坂氏が振り子のように腕を振りながら通り過ぎた。イニエスタ赤坂氏は10メートル位先に行ったところで振り向いて、Vサインをして見せた。それを見てすぐに、福居は後ろを向いて走り始めた。イニエスタ赤坂氏は何が起きたのかと驚いて、足を止めた。次の瞬間、いちびり氏は叫んだ。
「あんた、バタフライではこの人に勝てるのかもしらんが、背泳ぎはこの人の方が上やで」
そのイニエスタ似の男性は少し戸惑っていたが、発想が柔軟な人だったので、ニッコリ笑って、背泳ぎスタイルで福居の後を追った。新京阪橋近くで、福居を追い抜き、福居は抜かれてがっかりして力が抜け転倒して、2回転半して蹲った。いちびり氏がふたりに追いつくと、イニエスタ似の男性が言った。
「オウ、ワタシハスペインカラ、技能実習ノタメニヤッテキマシタ。脚力ニジシンガアッタノデ、アナタガタヲ挑発シテミタノデスガ、トンダ大騒ぎニナッテシマイマシタ。オワビシテテイセイイタシマス」
福居はしばらく転倒して動転していたが、やがて気を取り直した。
「いえいえ、私の方こそ大人げなかったと思います。つまらないことで興奮してしまいました。それにこのまま橋を渡る時にも後ろ向きで走ったのでは、事故が起きかねない。すみませんでした」
「マア、コレモ何かのエンダトオモイマス。コレカラハオフタリト仲良くシマショウ」
そう言うとイニエスタ似の男性はふたりに握手を求めた。