プチ小説「近所の物知りさん」

たろうは生まれて小学生高学年になるまで、木造の鉄道官舎で長屋住まいだったが、長屋を取り囲むように自然があったので、それほど遠くに出掛けなくても春夏秋冬飽きずに自然と触れ合うことができた。春には土筆取りをしたし、夏にはトンボ取りをしたし、秋にはどんぐり拾いをしたし、冬には...取れるものはないので、猫のように炬燵で丸くなっていることが多かった。

たろうの家の近所に大学を卒業後、会社勤めしていて、休日には山登りばかりをしている冒険好きな大人がいると聞き、母親を介してその男性と話をする機会をつくってもらった。母親は子供の頃からその男性と仲が良かったので、「うちの子が山登りしたいと言っている」と言ってもらった。その男性は、たろうからの申し出を快く引き受けてくれた。

次の日曜日の朝にたろうがその男性の家に行き、玄関の呼び鈴を鳴らすと、その男性が出て来た。
「やあ、たろう君、初めまして。まあ、入って、何もないけど、お茶くらいは入れさせてもらうよ」
たろうが住む官舎は、6畳と4畳半の二間しかなく、6畳間では、その男性の両親が炬燵に入って、テレビを見ていた。母親は、たろうに気付いて、台所にお茶の用意をしに行ったようだった。4畳半の部屋はスチール机と一人用の椅子がふたつの応接セットが置かれていた。しばらくして、母親がお茶とお菓子を持って入って来た。
「おはよう、たろう君。今日はゆっくりしていってね。山に興味があるっておかあさんから聞いたけど、どんな山なのかな。竹生は、いろんな山に登っているから、頼りになるかも。でも、冬山だけは行かないでね」
「かあさん、山登りは自己責任なんだから、周りからいろいろ言わない方がいいと思う」
「自己責任?」
「そう、どの山に、どの季節に、どのような目的で行くかによって、準備するものが大きく違ってくる。たとえば近くに天王山やポンポン山なんかがあるけど、そこに行くとき、たろう君はどんな準備をする」
「リュックに水筒、タオル、おやつくらいかな」
「そうだよね。遠足ならそれくらいでいいよね。じゃあ、友人とふたりで、伊吹山や御在所岳に行こうということになったら、何を準備するかな」
「少し遠いから、お金がいる。それから麓から登るんだったら、登山靴は必要。雨が降るといけないから、雨具もあったほうがいい。昼食と十分な飲み物は絶対必要だと思う」
「ふーん、よく知っているのね。じゃあ、たろう君、ゆっくりしていってね」
母親が部屋から出て行くと、竹生は湯飲みに口をつけて言った。
「じゃあ、そうして関西の千メートル以上の標高の山にいくつか登って、中央アルプスや北アルプスに行くようになったとして、何を準備する」
「山小屋を利用するかテントを持って行くかで大きく違ってくると思います」
「じゃあ、山小屋を利用するとしよう」
「まずは大きなリュックが必要でしょう。万一の時の為に水と食料を余分に持っておく必要がある。大雨に遭うこともあるから、丈夫な雨具も携帯しなければならない。3泊以上はするから、着替えも必要でしょう。万年雪のところもあるだろうから、アイゼンそれから緊急避難のためのツェルトもいるかな」
「すごいなあ、そこまで知っているんなら、すぐに行けそうだけど、今までのぼくの経験から言うとあと3つは必要だね」
「3つですか」
「そう、安全な登山をするためにはあと3つは必要なんだ」
「教えてください」
「まずは、4日ないし5日の間、なにがあろうと挫けない体力だね。以前、穂高に登った時、ちょうど南岳小屋と槍ヶ岳山荘の間を歩いていた時のことだ。悪天候の中で方向を見失ってしまった。誰も来ないし、ガスが視界を遮って10メートル先も見えない。そんな中1時間ほどどちらに行ったらいいのかわからなくなった」
「そんなこともあるのですか」
「そう、睡眠不足もあったけど、道が分かってから、昼食も取らずに歩き続けて、なんとか暗くなる前、午後6時までに上高地に着くことができた」
「よかった。それで二つ目はなんですか」
「登山はみんなで楽しく登るのもいいけど、やっぱり行きたいところまで行って、自然との触れ合いを求めるのなら、一人で登った方がいい。そうするときちんとした計画書が必要になる」
「横尾午後1時着、槍沢ロッジ午後3時30分着とかですか」
「まあそれも必要だろうけど、例えば5日間だけ山に滞在するとして、雨などで下山しなければならなくなった時にどうして帰るか決めないといけない」
「雨が止んでから、来た道を帰ってはダメなんですか」
「最初の日に雨が降り始めて2日目も雨だったら、それでいいけど、例えば3日目に穂高岳山荘に宿泊して、翌日、雨が降ったら、ザイデングラードを下りるべきだろう。危険なところが山ほどある、奥穂高岳、前穂高岳に初心者が行くのは避けた方がいいと思っている」
「なるほど、ただ行程を考えるだけでなく、進路を変えなければならなくなった時にどうするか考えておかなければならないということですね。それで最後は...」
「後はガッツ、根性だね。これは筋トレをして体力をつければある程度は身に着くものだけれど。山登りに何かを付加させると、底力が出せる場合がある」
「何かを付加させるのですか」
「そう、例えば写真を撮ることとか絶景を見ることとか高山植物を間近で見ることなんかがある」
「そうかそういう目的があれば、ただ行程をなぞるだけより、なんとしてでもやり遂げたいと思いますね」
「そう、その通りなんだけど、ひとりで槍、穂高に行くのは大人になってからの方がいいよ。必要な装備を揃えて自己責任で計画を立てて登れば、安全だと思う。学生の頃は、近くの山に登って体力をつけるのがいいよ」
「そうですね、楽しみはそれまで取っておくことにします」