プチ小説「近所の物知りさん3」
たろうが正直人の家の前で、こんにちは、いますかと言うと、家の奥で物音がしてしばらくすると玄関の引き戸を開けて正直人が出て来た。
「やあ、来たね。さあ、入って。お茶を出すから、腰かけて寛いでいて」
たろうが応接セットのテーブルを見ると語学の教材や辞書が積み上げられていた。正直人がテーブルに二人分のお茶を置くと話掛けた。
「たろう君は何のためにこれらが置いてあるんだろうと思っているんだろ」
「はい」
「実はぼくも高校生までは英語が嫌いだった」
「嫌いだったんですか」
「そう特に高校時代はそうだった」
「どうしてですか」
「それは成績が悪かったから...それもあるけど太郎君がきのう最初のところで言っていたように、語学を勉強する必要性を感じなかったからなのさ。例えば、ぼくは今でも数学や理科がほとんどできない。それは生活する上で必要がないからだと言える。使う必要がないから、勉強する意欲も湧かない。もしぼくに研究者になるとか、企業で研究・開発する上で数学や理科の知識が必要なら、興味を持って取り組んだことだろう。でもそうでなかったし今も必要でないから、数学と理科はできない。でも大学を出て、社会人になるためには、英語それから大学に入ったら、第2外国語は必須だ。それで何とか外国語に興味を持たせようと近くの公立図書館に数日通った」
「公立図書館ですか」
「そう普通の学生なら、興味を持って英語を勉強して英検2級とか1級とか取得していたのに、高校時代に成績がとことん下がって、ぼくは英語が嫌いになった。だけど何とかしてもう一度語学への興味を取り戻さないと一生後悔する。その手掛かりが公立図書館にあるのではと考えたのさ」
「???」
「で、その二日目に外国語の教材が並んでいる棚をじっくり見た。そこにはカラフルな大学書林の語学入門書が並んでいた。英語、ドイツ語、フランス語なんかはそこになく目立ったのは、スペイン語、ポルトガル語、スエーデン語、フィンランド語、デンマーク語、ビルマ語、ベトナム語なんかだった。それで2つのことを思い立った。なんだと思う」
「英語がいろんな言語を学ぶための足掛かりになるとかですか」
「そう、大学に入って他の言語を学ぶためにはよりどころになり、比較対象になるものが必要でまずは英語をある程度理解すれば役に立つと考えた。そう考えるとただポップスの歌詞を理解するための役割から飛躍的に必要性が大きなものになった。それからもうひとつは教材の中の物語とか論評とか随想の内容に興味深いものもあるということだった。それを読むことで自分の血肉になると感じたぼくはそれから英語を学ぶのが嫌でなくなった。習っていれば、広い世界に繋がっていくし、英語で書かれた小文でも中には面白いものがある。地道に辞書を引いて自分で翻訳したり、英語訳を考えることは決して無駄でないと考えるようになったんだ」
「英語を学びたいという気持ちになったのですね」
「そう、でも時すでに遅し、浪人生活も2年目の終り頃だった。でも気持ちを切り替えられたお陰で、英語の勉強が捗り、有名な予備校に入ることが出来た」
たろうがテーブルの上の本に目をやると正直人はそのひとつを手に取った。
「予備校で英、国、世界史を頑張って勉強したので、何とか関西の有名私大に入学できた。大学時代にESSに入部するとか、英検や国連英語の勉強をしていれば、英語ができる会社員として世界中を飛び回っていたかもしれないが、大学に入って第2外国語を勉強するようになるとそちらに時間を割く必要が出て来た」
「それでまた英語が嫌いになったのですか」
「そんなことはないさ。でもぼくは法学部に入学したんだけど、専門科目の勉強だけでも大変なのに英語の他、第2外国語の予習もしなければならない。それに通学に片道2時間くらいかかったから、時間の余裕もない。それで卒業のためには、専門科目を優先しよう。卒業して時間的余裕がもしできたら、語学を趣味的に学ぼうと決心した」
「それでここにある、リンガフォンというのを買われたのですね」
「そう卒業してから、10年くらいは、リンガフォンの英語、スペイン語で勉強した。修了証もある。スペイン語は、大学3回生の時にリーダーと文法を習ったのでやってみたかった」
「でも、ぼくは正直人さんのようにはできない...」
「まさか、そんなことする必要はない。ぼくが話しているのは失敗談だよ。たろう君は英語への興味を失わず、地道に勉強するといい。そうして大学生になったら、第2外国語を習って、英語を深く理解するのに役立てるといい。ドイツ語では男性、女性、中性名詞があってしかも冠詞が格変化するから、英語がいかに合理的な言語かがわかるだろう。スペイン語はわかりやすくて発音も簡単だけど文学作品としては、「ドン・キホーテ」くらいしかないということを知ることも大切なんだ」
「ちょっと、難しすぎます。それにお話が英語を習う必要性とも離れていきます」
「いや、熱くなってしまった。ごめんごめん。こういうところがあるからいつまでも語学で時間の無駄遣いをしてるんだろうな」
「そうですか。正直人さんはオペラも聴かれるし、ドイツ語やスペイン語を習ったのは無駄にならないと思いますよ」
「そうかいそうかい、何だか君のお陰で元気が出て来た。またおいで」
「もちろん、そうします」