プチ小説「こんにちは、N先生21」
私は、『こんにちは、ディケンズ先生』第3巻と第4巻を2020年3月4日に出版して、第1巻と第2巻を受け入れていただいた大学図書館(100館余り)のうちの50の大学図書館に寄贈したのですが、今のところ京都大学だけの受け入れで母校立命館大学の受け入れもしていただいていない状況です。それで公立図書館への受け入れで頑張ってみようと、1月に京都市立図書館に受け入れをお願いしました。2月に受け入れていただいたので、今日は愛知県内の図書館2館に行くことにしました。最初に名古屋市立鶴舞図書館に行き、瀬戸市立図書館に向かう途中、名鉄大曾根駅校内のそば屋に入りました。十割蕎麦を頼んで前の席を見ると、千鳥格子の上着を着た男性が背中を向けて蕎麦をすすっていました。私はまさかこんなところでN先生にお会いできるとは思っていなかったので、しばらく目の前にある天丼と十割蕎麦のたぬき蕎麦(きつねそば)をかき込んでいました。口いっぱいにほおばって顔を上げると、N先生が私の前に立って苦笑いをされていました。
「いつになったら、呼んでくれるんだろうと思っていたんだ。いっこうに君が私に気付いてくれないから、こちらから声を掛けてしまったよ」
「す、すみませんでした。似た人がいるなと思ってはいたんですが、まさかここで先生とお会いするとは思っていなかったんです。こっちに転居されたのですか」
「いいや、私は最近、陶器を蒐集しているんだ。で、名鉄瀬戸線で尾張瀬戸まで行くところなんだ。君は」
「私は、自著を受け入れてもらうために瀬戸市立図書館に行くところです。だからその手前の瀬戸市役所前で降ります」
「そうかそれなら、君がよければ途中まで一緒に行かないか。もちろん君の食事がすむまで待っているよ」
店を出て名鉄の改札口をくぐりホームに出ると、急行電車が出発するところでした。
「君はここに来たことがあるの」
「瀬戸市立図書館には今まで2回来たことがあります。最初に来た時はどう行ってよいかわからず、道に迷いましたが、2回目は最短距離で行けました。全国のあちこちの図書館に行ったので、図書館に行く道のりがどうだったかなかなか思い出せないのですが、瀬戸市立図書館は図書館の建物も印象に残るものなので、道のりもはっきり覚えています」
「今でも、ディケンズの翻訳を読んでいるのかな」
「いいえ、加賀山卓朗訳『大いなる遺産』を読んでから、読んでいません」
「じゃあ、ギリシア神話やギリシア悲劇を読んでいるのかな」
「そうですね。今、人文書院が昭和35年に出版したギリシア悲劇全集1を読んでいます」
「アイスキュロス編だね。オレステイア三部作はもう読んだのかな」
「『縛られたプロメーテウス』と『ペルシアの人々』を読み、三部作の『アガメムノーン』を読み終えたところです」
「君はトロイ戦役の前後のことを少しはわかっているのかな」
「呉茂一先生の本や映画「トロイのヘレン」「トロイ」で知ったことを寄せ集めただけですが、ミュケーナイ王アガメムノーンの弟メネラオスの妻ヘレンがトロイ王プリアモスの息子(ヘクトールの弟)パリスと道ならぬ恋に落ち、パリスはヘレンをトロイに連れ帰る。ヘレンを取り返すためにとアガメムノーンとメラネオスは大船団部隊を編成するが、王が口を滑らせ失言したため女神アルテミスの怒りを買い、逆風が吹き船が出航できない。神託を問うたところ、アガメムノーンの娘イピゲネイアを生贄にすればアルテミスの怒りは収まるだろうと教えられ、王はイピゲネイアの母(アガメムノーンの妻)クリュタイメストラやイピゲネイアの恋人アキレウスを欺いて娘を生贄に捧げる。逆風が治まり、トロイに着いた船団もトロイ軍の抵抗にあい、なかなか勝機を見いだせない。オデェッセウスの提案で木馬に兵を隠し、敵陣に入らせることになるが、この作戦が見事に成功し、アキレウスがリーダーとなりトロイの街に火を点け崩壊させる。映画「トロイ」では、アキレウスがパリスに殺されるが、実際どうだったかはわからない。アイスキュロスの悲劇『アガメムノーン』ではトロイの王女で祈祷師のカッサンドラとともに帰国したアガメムノーンが王妃クリュタイメストラに殺害されるところで、幕となる。これから何年か後に王妃クリュタイメストラは共謀して王アガメムノーンを殺害した愛人のアイギストスとともにアガメムノーンの息子オレステース、その姉エレクトーラに殺害される。オレステースにとってアイギストスは父を殺害した憎しみの対象だが、クリュタイメストラは自分の母親なので呪いを受け、狂人となってしまう。しかし神々の裁判を受けて、オレステースは無罪となる。オレステースはトロイ戦役の発端となり、家庭を崩壊させたヘレンを不義の女としての成敗も実行するといったところでしょうか」
「そうか、まだ君はアイスキュロスの『アガメムノーン』を読んだところなんだ。アイスキュロスの他の作品も面白いし、ソポクレス、エウリピデスも優れた悲劇を書いている。私は君がこれらの作品のすべてに目を通してから、もう一度君の前に現れるとしよう。はは、安心したまえ。大昔の話だし、彼らの悲劇の4割くらい理解できれば十分だよ。君がギリシア悲劇を読んでの率直な感想が聞けたら、私はそれで満足するから」
「400ページほどのハードカバーが4冊ですからヴォリュームがあります。6月くらいまでかかるでしょう」
「じゃあ、ディケンズ・フェロウシップの春季大会(オンライン開催になるだろう)までには読み終えることができそうだね。それからあと、君はまたディケンズを読み直すといい」
「そうですね。そうします」
私が電車を降りてN先生を見ると、先生はガイドブックを取り出して訪ねる陶器店を調べているようでした。