プチ小説「東京名曲喫茶めぐり ライオン編」

「渋谷ってやっぱりすごい。どちらを見ても人ばかり」
「道玄坂を少し上がって右に入ったら人通りも減るから、それまで逸れないように」
「最後に行く店って、どんなところなの」
「ぼくが15年前初めて東京に来た時、偶然立ち寄った店さ。当時、プレミアム盤を買い漁っていたぼくは
 名曲喫茶に関心はなかったんだけど、夜行バスの待ち合わせのために利用したんだ。今から店内に入るけど
 そのスピーカーが大きいことと教会の礼拝堂のようなつくりに圧倒されてしまった。しかも流れて来る音は
 自然な音で、心にしみるものだった。ヴァイオリンの音は流麗で時に心をはげしく揺さぶる。ピアノの音は
 華やかであるが静かな演奏の時には素朴な味わいがある。オーケストラの音は楽器の音を際立たせるのではなく、
 自然に川のうねりのようにぼくの心に押し寄せて来た。その時の音体験はそれまでになかったすばらしいものだった。
 なぜこのことに早く気付かなかったのかと思った。レコードが音のよい外国盤で自宅の装置が一定の水準のもの
 であれば、それで充分と思っていたが、ライオンの音を聴いて、眼から鱗じゃなかった、耳から耳栓が取れた
 みたいだった。やはり良い装置で音楽を聴かないとと思ったんだ。それからは足しげくいくつかの名曲喫茶に通い、
 今は3つの店がいいと思っているんだ。まあ見てごらん、きっとすごいと思うから」
「ほんとだ」
「最近さらに整備されて、以前よりぐんと音が良くなった。奥さんの話に寄ると、ほらあそこでほほえんでいる方がそう
 なんだけど、1960年代の全盛の頃は3階席まで解放していて、席が埋まっていたそうだよ。今日もお世話になります。
 そう、いつものようにアイスミルクコーヒーを、たろうくんもそれでいいかい」
「うん。それでリクエストしていいのかなあ。ああ、いいんですか。それじゃあ、何かハープの音を聴かせてもらえないですか」
「じゃあ、パイヤール盤でモーツァルトのフルートとハープのための協奏曲でも聴こうか」

「どうだった、東京は。と言っても、阿佐ヶ谷の名曲喫茶に行ったあと高円寺の商店街でそばを食べて、そのあと高円寺と渋谷の
 名曲喫茶に行っただけなんだから、午後7時の新幹線で帰るというから、効率よく回ったつもりなんだけど、これでよかったの
 かなぁ」
「本当にありがとう、感謝します。オアシスで充分に滋養を養ったのだから、しばらく勉学に励みます。趣味の世界は、あくまでも
 趣味ですまさないと。これで生計が立てられるといいですけどね」
「まあ、そう言うのは勝手だけれど、今でもその可能性を探っている僕の立場はどうなるの」
そう言って毛利は明るく笑った。